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山本幸久さんの「渋谷に里帰り」です。


《文庫裏表紙より》
峰崎稔は、大学卒業後、食品会社に就職、営業マンとしての野心もなく10年が過ぎた。寿退社する先輩から引き継ぐことになったエリアは、子供時代を過ごした渋谷。そこは、親の事業失敗で転居して以来、遠ざけていた場所だ。だが、顧客から信頼される先輩の手腕を目の当たりにするうち、仕事の面白さに気づき始めていく稔。そして、新しい恋が始まる予感も──オシゴト系青春小説!


ああ、読みやすい。
スイスイ、心地よく読めてしまう。
見事なまでにすんなりと文章が、物語が頭に入ってくるし、私に合わせてくれたのかと思うような優しいリズムに漂いながら、主人公を取り巻くいろんな出来事にも適度に興味を惹かれて、ホーバークラフトのような抵抗のない推進力で頁をめくっていく。

主人公は、確かによくいそうな三十代前半の男性だ。
喜怒哀楽を顔に出さず、覇気のない男と思われている。でもそれなりにユーモアもあり、頑張るところは頑張るし、上司との関係も悪くない。
自分にかぶる部分がないでもないが、自分の分身のようには感情移入はできない。

作品の構成もそんなに特別な工夫があるわけではない。
普通と言えば普通のお仕事小説である。
物語の展開も地味と言えば地味かもしれない。
目頭が熱くなることもないし、ハラハラドキドキのスリルも特にない。

それで、面白いのか?と問われれば、なんか面白いのだ。心地よいのだ。
読んでいて楽しいし、活字の中になんの迷いもなく溶け込めるのだ。

これぞ、山本幸久さんの才能だろうか。
あたりまえの日常、あたりまえのお仕事、あたりまえの人間関係。
その中で普通に真摯に前を向いて歩んでいく姿が、とてもとてもキュートでかけがえがないのだと、彼は教えてくれる。

渋谷という都会が舞台となっているから、渋谷なりの楽しさが盛り込まれているのだが、そういう中でも誰にとっても何か懐かしいと感じられるようなまちの断面を垣間見せてくれる。
そういう細かな配慮が行き届いていて、地方に住んでいる私にも共感できるエピソードが積み上げられていくことが、また心地よさを与えてくれるのだ。

おだやかな、安定した気持ちになりたいときに、山本幸久作品は効くのである。

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2012.06.15 | 山本幸久 | トラックバック:(0) | コメント:(2) |

伊坂幸太郎さんの10作目の書き下ろし長編「夜の国のクーパー」です。


《東京創元社HPより》
この国は戦争に負けたのだそうだ。占領軍の先発隊がやってきて、町の人間はそわそわ、おどおどしている。はるか昔にも鉄国に負けたらしいけれど、戦争に負けるのがどういうことなのか、町の人間は経験がないからわからない。人間より寿命が短いのだから、猫の僕だって当然わからない──。これは猫と戦争と、そして何より、世界の秘密のおはなし。どこか不思議になつかしいような/誰も一度も読んだことのない、破格の小説をお届けします。ジャンル分け不要不可、渾身の傑作。伊坂幸太郎が放つ、10作目の書き下ろし長編。


あとがきで伊坂さんが大江健三郎さんの「同時代ゲーム」について触れている。「同時代ゲーム」は、とても懐かしい。村であり、国家であり、小宇宙であるそこは、創造者であり破壊者である巨人が立ち会っているその構図がなんとも魅力的で衝撃だった記憶がある。

そんなずいぶんと薄らいでしまった大江作品の印象を少し引摺りながら、本作を読んでいた。登場する人物やクーパー、ネーミングなども何か共通する匂いを感じる。

最初の猫が語り出す10頁、いや妻に浮気された男が突如登場する20頁くらいか、さすが伊坂さんと思わせる入り方で興味をグイッと引き寄せられる。
ああ、これはやっぱり面白いんだろうという期待感が脳を刺激する。

だが、ここからは正直に言うとちょっと退屈になってくる。面白くないことはないし、不思議でファンタジックな世界が描かれていて興味はそそるし、小さな国の都市空間や登場人物(動物も)のキャラクターなども映像的に想像すると魅力的なのだけれど、何かいつもの伊坂作品に溢れるワクワクした次へ次へと読み急いでしまうような推進力が湧いてこない。

妻に浮気された男が猫に語るところでちょっとホッ一息つき、また、話言葉の中に猫らしい感覚とか潜り込ませてあってニンマリしたり、猫と鼠のくだりあたりはなかなか面白くてリズムが出てきたりするのだけれど、主軸の小さな国と鉄国のお話が途中どうも私には退屈に感じられた。

でも、さすがに終盤の展開は唸らされるものがある。
いくつも貼ってあった伏線が回収されはじめると、そのスピード感と勢いに翻弄されながらも、いろんなこともつながり納得感が湧いてくるし、そこに何か優しくて穏やかな、でも強い思いが感じ取ることができて、結局のところ読後感はたいへんに心地よいものだった。

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2012.06.11 | 伊坂幸太郎 | トラックバック:(2) | コメント:(0) |

京都大学教授、鎌田浩毅さんの「世界がわかる理系の名著」です。
世界を変えた十四冊の本を取り上げ、内容などをわかりやすく説いた解読本である。


これは、大変に面白かった。素晴らしく興味深い内容で、名前は知っていても実際はちゃんと内容を知らなかった科学者を、彼らの名著を見事なまでにわかりやすく解説してくれている。

科学の世界の面白さ、世の中を大きく変える理論を生み出したその苦労、希代の科学者の人物像が手に取るようによくわかる。この本自体が、名著だった。

取り扱うのは、「第1章 生命の世界」「第2章 環境と人間の世界」「第3章 物理の世界」「第4章 地球の世界」の4つの分野である。登場するのは、ダーウィン、ファーブル、メンデル、ガリレイ、ニュートン、アインシュタインといった科学に興味が無くても名前くらいは誰でも知っている超有名科学者、教科書に出てくる人たちがほとんどである。

構成がなかなか良い。それぞれに以下の項目で整理されている。例えばダーウィンの場合
 ◆書いた人はこんな人
 ◆こんなことが書いてある
 ◆その後、世界はどう変わったか
 ◆エピソード
 ◆ダーウィンの教訓
 ◆さわりピックアップ(原書の一部を紹介)
 ◆ダーウィン後(名著にいろんな意味で関連する最近の興味深い本の紹介)

名著の内容や背景、その後の影響、著者の人物像などがわかりやすくて素晴らしいのだが、さらに「○○○後」として紹介している最近の作品がまた秀逸である。これらも読みたくなってしまう。

面白かった内容をピックアップしようとするときりがない。みんな面白い。みんな凄いし、みんな興味深いし、みんなどこか可笑しくて、みんな尊い。

そんななかで、興味を引いたのは、ユクスキュル「生物から見た世界」である。1934年に出版された動物学の古典的名著である。

「動物を取り巻く時間や空間は、動物によってすべて違う」を言うのである。これを『環世界』と呼び、「人間を含む個々の動物にとってみれば、自身が作り上げた主観的な環世界の中でのみ生きている」とした。

「主体が意味を与えたもののみがそこに存在する」ということで、人間と犬とハエは、同じ場所を見ていてもまったく見えているものが違うという。これは個々の人間の場合、価値観の差異として現れる。誰もが自分だけの思い込みの世界で生きており、他人の思い込みはわからないということだ。これは、革命的な視点である。

そして現在ではこの環世界の考え方なしには、環境問題の本質的な議論はできないという。人間を取り巻く環境という概念自体が、人類の幻想によって成り立っている。人間は、人間にとっての環境しか考えられないのである。今後の人類存続と持続する社会を作り上げるためにも必須の視座なのである。

ユクスキュルは、あまりにも登場が早すぎ、当代の有力科学者たちにはまったく認められなかったらしい。正当の評価を受けるまでに何十年という期間を待たなければならなかった。

アインシュタイン「相対性理論」もさすがに面白い。

「相対性理論」の原題は「動いている物体の電気力学」だそうだ。アインシュタインは、物理学の基本から始めて、中学高校レベルの数学を使いながら相対性理論の本質をじっくりと説明していく。
相対性理論を一言で言ってしまうと、とにかく「世の中には光速以外に絶対のものはなく、すべては相対的という考え方」だけわかればよいとのことだ。

アインシュタインは、家族が移住し一人でミュンヘンに残されて寂しさのあまりノイローゼとなりギムナジュウムを中退したり、連邦工科大学を受験するも語学や歴史、生物の成績がふるわず不合格になったり(ただし数学と物理は最高点)、大学での欠席も多く担当教授と巧くやっていくことができずに大学に残って研究する道も絶たれたりと、あまりぱっとしない状況で、ベルリン特許局の技師として平凡にいわゆる閑職につくこととなる。

しかし、就職して二年後、「特殊相対性理論」「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」という物理学の重要な考え方を立て続けに一挙に公開する。「奇蹟の年」と呼ばれている。

アインシュタインは、学業の成績は劣等生だったと言われている。暗記が必要な科目はまったくできなかったそうだ。それは、アインシュタインが、自分に合わない科目はばっさりと切り、「つまらないことで頭を疲れさせない」という天才的な戦略をとったためと言われている。意識的に物理学のためだけに自分の大切な時間と頭を使ったのである。

「才能とは、生まれながらにして頭を疲れさせないシステムを搭載していることではないか」と著者は言う。

多くの天才科学者たちに共通するのは、新しいサイエンスを産み出すという本来の仕事の他に、社会の圧力に対抗しなければならない苦労をしていることだ。

ダーウィンの「種の起源」は、キリスト教思想を覆すような考え方に対して教会や学会のボス教授たちの激しい非難、攻撃にあった。これに対して友人の学者ハクスレーやヘッケルらが擁護し、論争をはる。

ファーブルは、十九世紀のフランスでは、大部分が昆虫は悪魔がつくったものと信じられ、フランス人は犬より小さな生き物は目に入らないという環境の中でほとんど知られることがなかったそうである。また、きわめて平易な文章で自然を伝えることに成功しているのだが、専門家からはそれが低い評価になったそうである。

メンデルの画期的な成果も、当時の研究者の誰にも注目されず、三十四年間も埋もれてしまうという運命にあった。それは、メンデルがアカデミアの学者でなかったためと言われており、生物学に数学的解析を持ち込んだメンデルの画期的な点が、当時の生物学者の理解をはるかに超えていたことが原因である。
生前なんの評価も受けなかったメンデルの研究成果は、後になって三人の科学者がまったく別の場所で証明していくことになる。

ガリレイは、地動説を支持した内容が聖書を厳格に信じる教会の反発を買い、宗教裁判にかけられる。そして宗教界とつるんでいた学閥アリストテレス学派から目の敵にされるのである。

ウェゲナーは、「大陸は移動する」ことを発見し、超大陸「パンゲア」という考え方を唱えたが、当時のボス科学者たちにはまったく理解できなかったらしい。彼のアイデアは、あまりにも新しすぎ、科学者コミュニティで孤立していく。そして、この画期的なアイデアは五十年もの間地球科学の世界から姿を消してしまうことになる。
当代で得られる事実だけでは、仮説を十分に実証することができず、このアイデアは、新しい技術(米軍が開発した音波発生装置など)によって実証されていく。

革命的な科学者は、たいていの場合、異端児であり、理解されないことが多い。そこには、良き理解者、友人たちが彼らを支えていたり、少し後の時代に実証していく科学者たちがいたりして、一人では成し遂げられなかったサイエンスフィールドの改革が進んでいくのだということがよくわかる。

そして、科学者には、仮説を立てる能力とともに実験・実証を遂行する忍耐強さが必要なのだが、自分が発見した事実をぜひとも伝達したいという強い情熱と、虐げられたり、認められなかったりする不遇の環境の中でも研究を続け、書に残していく姿勢がこれらの名著を生んでいることに感激するのである。

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2012.06.09 | サイエンス | トラックバック:(1) | コメント:(2) |

滝川薫、村上敦、池田憲昭、田代かおる、近江まどかさんによる「欧州のエネルギー自立地域 100%再生可能へ!」です。

本書は、脱原発を決めたドイツ、イタリア、スイス、原発を持たないオーストリア、デンマークにおいて、農村から大都市まで、原発や化石燃料に依存しない再生可能エネルギーによる自立をめざす実践の様子を、欧州に暮らす5人のジャーナリストが取材し、レポートしたものである。

各国のエネルギー政策やその背景なども整理されているが、特に五か国から15か所の村や町、州を選び、再生可能エネルギーの導入に至った経緯や現状などを報告している。

先進地域として紹介されているところは人口数千人の小さな村が多い。農村地帯では、交通も含んだエネルギー消費を100%再生可能エネルギーで生産することは、地域の資源や環境条件として短中期的に実現可能であるとともに、住民の意思統一が比較的容易であり、地域のイニシアティブが働きやすいからであろう。

一方、人口密度が高い都市部では、その難易度が上がる。そのため、都市と周辺地域が集まった広域連携地域で取り組もうという例が増えてきているそうであり、本書では、人口135万人を抱えるミュンヘンのような大都市や州の取組も紹介されている。

再生可能エネルギーの導入に取り組む地域の最大のモチベーションは、これまで化石燃料(電気代、暖房代、ガソリン代など)を購入して地域から流出していたお金を域内で循環させることで、地域経済を活性化することだ。
そして、その担い手は、市民であり、地域の事業者である。
あくまでも地域戦略として、社会全体で取り組んでいるケースを「エネルギー自立地域」と呼んでいる。

欧州では、ここ15年ほどの間、エネルギーの主権を再び地域に取り戻す動きが急速に展開しており、地域分散型のエネルギー供給システムへの回帰が進んでいる。
それは、農家の経営を支えるエネルギービジネスを提供するとともに、地域の人々が共同出資するなど多くの人に利益が分配される仕組みを伴っていく。それによって、地域コミュニティの強化にもつながっている。
そして、地域分散型エネルギー生産は、自ずと雇用も分散させ、施工業者、プランナー、コンサルタント、市民投資コーディネート会社、地域資本の小さなエネルギー会社、エコツアーの業者など、地域の中に新しい職を生み出している。

ドイツ、オーストリア、スイスでは、国や州が地域のエネルギー自立をサポートする様々なプログラムを進行中である。分散型再生可能エネルギーの時代には、地域住民の賛同と参加が欠かせない。そこで、自治体や郡は調整役を務める重要な存在である。

再生可能エネルギーを推進するインセンティブには、各種の政策、法的な枠組みが必要である。固定価格買取制度(FIT)やCO2税(環境税)、助成金、設備の建設許可の簡易化などである。固定価格買取制度は、日本でもようやく制度が確立し、2012年夏から運用がはじまろうとしている。

なかでも都市計画制度などとの調整が日本でも重要に思える。
例えば都市計画マスタープラン(土地利用計画)の中に、風況とともに自然や景観、住民への影響を考慮した風力発電の設置可能な場所の記載すること/農地との調整の中でメガソーラー等の設置場所に関する記載/太陽光発電と歴史的建造物の保全規制との調整/生態系や景観、漁業権・水利権との調整を可能とする小水力発電に利用可能な区域を定義した水系地図の作成などである。

これから地域のエネルギー自立に取り組むにあたっては、その道しるべとしての「エネルギーコンセプト」づくりが、まず重要になる。自治体がエネルギー自立政策を実現していく上で基盤となる構想、行動計画である。

内容は、「現状の分析(エネルギー消費の現状とポテンシャル調査)」→「政策目標(目標設定とシナリオ)」→「戦略(対策リスト、実施体制と評価方法の作成)」などを定める。
また、これらを支える情報としてエネルギーのビジュアル化(GIS等)が望まれる。

これらは、地域の様々なステークホルダーが集まって共同で未来図を描き、地域のコンセンサスを得ていくプロセスが大切である。

そして、非常に重要なのは、市民の参加や小さな投資を広げていくための様々な手法を地域にあった形でデザインしていくことだ。再生可能エネルギーの市民投資をコーディネートしていく必要がある。

小規模分散型の再生可能エネルギーは、小さな投資家を好む。小さな市民投資家が安心してエネルギー生産事業に参加できることがきわめて重要なのである。

本書は、エネルギー生産が分散することにより、経済活動も富も分散し、地域が豊かになると言う。再生可能エネルギーが地域社会の再生や発展にとって重要な「道具」として大きな意味を持ちはじめていると訴える。
一極集中の産業構造から分散型の構造への移行であり、社会構造の大きな変化を必要とする。その長いプロセスを踏み出そうと唱えている。

今、日本でも、再生可能エネルギーへの転換の動きが加速しつつある。しかし、メガソーラーをはじめ、再生可能エネルギー事業を推進しようとしている事業体の大半が大企業ではないだろうか。
しかし、本書で紹介されている欧州の事例では、大企業は登場していない。あくまでも、地域の住民と自治体、地域企業が主役である。本書は、日本の進むべき方向を示唆しているように思うのだが、果たして日本において、住民自らが立ちあがり事業を主体的に立ち上げていくような機運が起こってくるのだろうか。

日本においても、今、福島原発の事故をきっかけとして高い問題意識が芽生えてきていると思うが、そうした意識を具体的な事業への参加に向かわせる啓蒙とか、地域の意思形成とか、教育とか、安心して参加できる枠組みづくりとかいった取り組みや事業を推進し、コーディネートしていくことが必要なのではないかと思う。その役割は、自治体だけではなく、地域にそうした専門機関を育てていくことが必要なのではないだろうか。

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2012.06.06 | 地域づくり | トラックバック:(1) | コメント:(5) |

中村文則さんの「何もかも憂鬱な夜に」です。
解説をピースの又吉さんが書いている。

《文庫裏表紙より》
施設で育った刑務官の「僕」は、夫婦を刺殺した二十歳の未決囚・山井を担当している。一週間後に迫る控訴期限が切れれば死刑が確定するが、山井はまだ語らない何かを隠している―。どこか自分に似た山井と接する中で、「僕」が抱える、自殺した友人の記憶、大切な恩師とのやりとり、自分の中の混沌が描き出される。芥川賞作家が重大犯罪と死刑制度、生と死、そして希望と真摯に向き合った長編小説。


暗くて湿った感じがする。
生と死、重大犯罪や死刑制度といったとても重いテーマに真正面から向き合っている。

こういう内容は、落ち込みそうだし、表紙もなんかじめじめした感じがするし、どうにも読み進める自信が無い。ずっと以前は、重いテーマの純文学らしい作品を好んで読んだ時期もあったのだけれど、最近は耐性が無くなったのか正直に言うと読む気がしない。
でも、なぜか中村文則さんの作品は、つい手の取り、いつの間にか読み切ってしまう。そういう意味で、私にとって現代では希有な作家だ。

読み始めるとやはり重くてどうしようもなく低空飛行なのだが、そのままズーンとハイスピードでまっすぐに暗闇の中を突き進み、後半は徐々にスピードを上げながらほんの少し浮上して読み終える。そんな感じである。

登場人物の関係性だとか、物語を深めていく構成の妙だとか、テーマへの向き合い方だとか、死刑制度への問題提起だとか、いろいろ評すべきところ、感じることはあるのだけれど、何よりも強く惹かれたのは、感情を言葉で表現仕切ってしまう筆力だ
それはもうまっすぐにまっすぐにひたすらまっすぐに表現する、言葉の力を信じて書ききってしまう圧倒的な密度というか、比重を有している。

自分の中に渦巻く混沌、わき起こってくる得体の知れないもの、押さえようのない衝動、混乱し自分の意志のコントロールが効かなくなる瞬間、苦しくて叫びたくなるような不安感、そうした主人公の感情の動きや意識というのか無意識というのかそんな心の動きを、脳の疼きを、随所で言葉で表す試みに挑戦しているように思えてくる。
それは、見事に成功しているように私には伝わってきた。

こういう感じは体験したことがあるようなそういう気持ちが襲ってくる。
ある種の共感がわき起こる。それは、少し快感でもある。
この感じは、自分の暗部を、弱い部分を、撫でられているようで少し気分が落ち着くのだ。

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2012.06.02 | 中村文則 | トラックバック:(1) | コメント:(2) |

ヒヨコ舎という単行本・雑誌編集集団が出版している「作家の本棚」です。
本棚をのぞかれた作家さんは、角田光代、桜庭一樹、石田衣良、穂村弘、有栖川有栖、神林長平、菊池秀行、川上未映子、みうらじゅん、山崎ナオコーラ、山本幸久、西加奈子、夢枕獏、中島らも の14人。


人の本棚を覗くのはそこはかとなく楽しい。それも、よく作品を読ませてもらっている作家さんの本棚には興味津々だ。
今回、のぞかれた作家さんのうち、特に好きで良く読んでいる作家さんが半分くらい含まれていて、本屋で見つけて速攻レジに向かってしまった。

自分との共通点とか見つかるとまた嬉しくなる。

最初にのぞかれたのは角田光代さん。
壁の一面に造り付けの本棚があり、整然と本が並んでいる。
確か角田さんは、仕事場にマンションの一室を借りて通勤しているんだとか聞いたことがある。部屋そのものに生活臭がしない。一番本を読んでいるのは、今だという。生活の隙間に全部本が入っていると。銀行の行列に並ぶときも本を読むそうだ。

桜庭一樹さんは、今の本棚に入っているものは殿堂入りで、この本棚に入れられるだけ本を持っておいて、それ以上は持たないという。
本屋さんは毎日どこかしら覗いている。隅っこにある平積みの本が気になるそうで、新刊じゃないのに店員さんで個人的に気に入っている人がいるなっていう、どさくさにまぎれて置いてあるなっていうのがすごい気なるそうだ。私も同じだ。なんとなくこの気持ちはよくわかる。

穂村弘さんは、「本は別世界とか異次元の入り口だ」という。そういう感じをさせるものが好きだそうだ。私と共通するのは、絵本やデザイン系の本を楽しみとして買うことだ。確かにデザイン系の美しい、かわいい本が並んでいる。私もデザイナーでもないのに、「デザインの現場」がズラッと並んでいたり、デザイン系の事典や作品集なんかを買ってしまったりする。なんか本棚に並べてあると嬉しいのだ。

有栖川有栖さんは、蔵書がすごい。移動式の本棚が見事に並んでいる。神林長平さんの本棚もすごい。自分の本棚の前で立ち読みするのが好きなそうだ。うらやましい。

みうらじゅんさんの本棚はごちゃごちゃしてる。物持ちが良くて、小学生の時買った本とかもある。あれやこれや放り込んだ感じだ。
本屋さんでタイトルが引っかかった本を買っちゃうそうで、「買ってすぐには読まない。しばらく本棚に入っていてある日突然扉がばーんと開くんです」だそうだ。なるほど。

最近注目している山崎ナオコーラさん。
作家になるきっかけの本は、「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」。小学四年生の時すごい衝撃を受けて「こんな無意味な文章でいいんだ」とこういうものを書ける人になりたいと思ったそうだ。
本棚には、西加奈子さん作品がずらりと並んでいたり、柴崎友香さんなど私の良く読む作家さんの本が並んでいて嬉しくなる。書店がすごく好きで、欲しいものがないときでもブラブラ毎日のように行っているそうだ。
ここでも将来本が増えていったとき、おばあさんになったときの妄想が広がっていって面白い。さすがにナオコーラさんである。

山本幸久さんは、書店のカバーがかけっぱなしだ。珍しい。背表紙を見たくならないのだろうか。小学生の時から、好きな漫画を単行本で買うようになって、江戸川乱歩を読んで、星新一読んでっていう正規のルートを辿ったという。そうか、私も本好きになる子どもの普通のパターンだったんだ。

一番嬉しかったのは、大好きな作家の五本の指に入る西加奈子さんの本棚が、私の本棚にとても似ていることだ。本棚自体もいくつか積み上げられていて、中も二列に詰め込んでいて、さらに隙間に横積みされていて本がはみ出てきている。ちょっと気恥ずかしい本を後ろの列に置いたりするところも似ている。
蔵書をもっと詳しく見たいところだが、写っている範囲でも安部公房や大江健三郎やガルシア・マルケスの古い単行本が並んでいたり、プロレス系のものがあったりして共感しちゃう。なかでも、私のバイブル的な「浮浪雲」がズラッと並んでいるのについ声が出てしまった。

存分に楽しませてもらった。いいなぁこういう企画。
中でも特に好きな作家さんの本棚は、もっと隅々まで覗かせて欲しかったなぁと思う。そして、自分の本棚のことを、蔵書のことを延々と語って欲しい。
本はやっぱり本棚に並べるためにあるんだとあらためて実感するのだった。

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2012.05.27 | その他 | トラックバック:(1) | コメント:(2) |

新井満さんの「自由訳 老子」です。
全八十一章五千数百文字からなる「老子」を、重複を整理単純化して、全十八章のわかりやすい日本語に訳したものである。本書は、「老子」の哲学を、自ら「自由訳」と呼ぶくらいに、平易な単語を選び、やわらかな話し言葉で綴っている。詩のような哲学書である。

老子は何を語っているのか。
思い切りまとめてやれば、「水のように生きろ」と言っているように読み取れる。

「水ほど、やわらかく弱々しいものはないね。
 しかも決して争おうとしない
 丸い器に入れば丸くなり
 四角い器に入れば四角くなる
 形にとらわれず、自由自在だ」

「水のように生きるのが
 最高の生き方なのだよ」

そして、本書では、ところどころで大切なフレーズを取り上げては、美しい水の写真とともに表している。
すべてが、このような水が流れるように、あるいは風が吹きわたるように自由自在に生きる思想、ゆったりとおおらかに生きるという境地のなかに包まれているようだ。

好きなキーワードを並べてみよう。

ゆったりとおおらかに、やわらかくしなやかに、あるがままを受け入れ、ほどほどに、ひっそりとひかえめに、ただこつこつと、余計なことはせず、無為にして無心に生きる、すべてをゆだねて、天にまかせておけばよい

著者は、「老子」を「いのちの哲学」と呼んでいる。
老子は言う。私たち一人ひとりは大きな宇宙とつながりあって無数の命とともに生きている。そこから生きるエネルギーをいただきなさいと。

また、著者は老子が幸せな人生を実現するために、四つの生き方をすすめていると説く。
 ① 無欲に生きる
 ② 謙虚に生きる
 ③ 不浄の徳をもって生きる
 ④ 貢献の徳をもって生きる

こう言われると、とても道徳的な生き方を説いているように読めるのだけれど、私にはもう少し違う、私なりの勝手な印象を感じている。それは、「老子」読むと次のような言葉が私の気持ちの中に刻まれていくからである。

やわらかく弱々しいことに徹してかまわない。ほどほどに満足して生きればよい。
どこにでもいるような凡人としてひかえめに生きなさい。細く長く生きなさい。
あえて事を起こさず、平穏無事な日常生活を送りなさい。
自分が今なすべきささやかなことを、一つずつ、ただこつこつとつみかさねていくだけ。あとはじたばたせず、ゆったりとおおらかに天にすべてをゆだねておまかせするだけ。

こんなふうに、特になにも無いことにも意味があると。目立とうとせず、ひっそりとひかえめに生きることも美しいと、「それでいいんだよ」と私には聞こえるのだ。
だから、私にとって老子の言葉は、とてもやさしく、穏やかであり、日々のストレスやプレッシャーから身を守る言葉のバリアにもなっている。

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2012.05.26 | 哲学書 | トラックバック:(1) | コメント:(2) |

漫画家吾妻ひでおさんのコミックエッセイ「失踪日記」です。

もうだいぶ前に出版されてたいへん話題になり、
  第34回日本漫画家協会賞〈大賞〉
  第9回文化庁メディア芸術祭マンガ部門〈大賞〉
  第10回手塚治虫文化賞〈マンガ大賞〉
など、たくさんの賞を受賞した傑作なのだ。

むしょうに読みたくなり、あらためて読んでみた。
不安定な心が欲する作品なのである。

「全部実話です(笑)」と書かれているように、吾妻さん自身の実体験を赤裸々に語ったノンフィクションである。

一度目の失踪を描いた「夜を歩く」、二度目の失踪を描いた「街を歩く」、アルコール依存と治療の時期を描いた「アル中病棟」の3つの章で構成されている。

一度目の失踪は、仕事に追われ、「たばこ買って来る」と言って出て行ってそのまま失踪する。山で首つり自殺をしようとしてそのまま寝てしまったり、凍死寸前になったりしながら、山と街とを行き来しながらのホームレス生活をコミカルに綴っているが、内容はきわめてハードで切実なものがある。

二度目の失踪は、原稿を落としてフラッと逃げてしまい、竹藪とか街の中でホームレス生活に入る。二度目は、かなりホームレス慣れしていて、街の中の面白いヘンな人たちをウォッチングしながら、それなりに工夫して生きていく。その後なぜか配管工として働きはじめ、社内の不思議な人間関係に振り回されながらも社内報の漫画に応募したりもしている。

アルコール依存症の時は、その感情の動きとか、しらふの時の不安感とかが淡々と表現されてはいるが、それでも十分に鬼気迫るものが感じられる。
何度も幻覚をみて気がおかしくなりそうなり、あちこちで倒れたり寝たりそしてオヤジ狩りにあったりしているうちに、家族に強制入院させられるのだ。
病院に入院している依存症の面々もヘンな人ばかり出てくるのだが、入院生活の前半で本書は終わっている。

インタビューを読むと、「ギャグマンガの作家は、常に新しいギャグを考えようとすると、だんだん精神が病んでくる」のだという。そして、気がつくと原稿を落としたり、うつと不安と妄想に襲われたりして精神的にも非常にキツイ状態になっていったようである。

ギャグ満載でテンポの良いリズムに楽しく読んでしまうが、内容を冷静に見てみると実に壮絶である。冒頭に「この漫画は人生をポジティブに見つめ、なるべくリアリズムを排除して描いています。リアルだと描くの辛いし暗くなるからね」とあるのだが、それでも相当に厳しい状況を越えてきたのだと言うことは推測できる。よく、復帰できたものだと感心する。

すべてをご破算にして、消え去ってしまいたいと思う気持ちはとってもとっても理解できる。自分もそう思うことはよくあるが、なかなか現実から逃げ出せないでいる。そして鬱々と暮らしている。
そういう衝動に駆られて失踪した人間の実録であるということと、それをコミックエッセイという形式で、表現することを生業とする吾妻さんが作品にして公表し、それが大きな反響と評価を得て、たくさんの人に読まれてきたことに、この本のおおいなる価値がある。

この作品の凄いところは、実話でありながら、作品として実に面白いコトであろう。
悲惨な現実(体験)を軽々と越えて、作品として見事に昇華し、楽しめる読み物として構成してしまう吾妻さんの筆力はさすがである。

表現はいたって淡泊でほのぼのとさえしており、吾妻さん自身が出ずっぱりで飄々と悲惨な状況を通り抜けていく姿の背景に、社会の暮らしにくさとか、弱い人間にとっての生きにくさの本質みたいなものが透けて見えているようで、なぜか共感というか安堵感というか、救われるものを感じてしまう。
私はその心地よさに何度も何度も読み返してしまった。

全体にそうなのだが、特にアルコール依存については、漫画の特性を生かしてその怖さが実に鮮明でわかりやすく表現されていて、依存者の心理を理解するうえで貴重なのではないだろうか。

社会において不安を感じながら、ストレスに耐えながら生きている多くの人たちにとって、悲惨な体験を通り抜けてきた当人が、その気持ちを読みやすく表現してくれることは貴重であり、本作品はそういう意味で読み継がれていって欲しい傑作なのである。

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2012.05.19 | その他 | トラックバック:(1) | コメント:(4) |

安部公房さんの「R62号の発明・鉛の卵」です。
昭和30年前後に書かれた12編の短編集。

《文庫本裏表紙より》
会社を首にされ、生きたまま自分の「死体」を売ってロボットにされてしまった機械技師が、人間を酷使する機械を発明して人間に復讐する『R62号の発明』、冬眠器の故障で80万年後に目を覚ました男の行動を通して現代を諷刺した先駆的SF作品『鉛の卵』、ほか『変形の記録』『人肉食用反対陳情団と三人の紳士たち』など、昭和30年前後の、思想的、方法的冒険にみちた作品12編を収録する。


安部さんの作品には、境界をわからなくするものが多い。本書の中にもいくつも境界を曖昧にして、あるいは境界を意識せずにその間を行き来するものが見受けられる。
安部さんは、動物、植物、物体と人間との境界を事も無げに越えていく。あるいは、生と死の間、観念と物質、肉体と意識の間もするりと移り変わる。

「R62号の発明」では、自殺願望を持った機械技師が自らの命を秘密組織に売って、ロボットに改造されるが、そのロボットは人間を酷使する機械を発明して人間に復讐する。人間と機械(ロボット)とはここでは同列に扱われ、現代の合理主義への皮肉が込められながらも、単なる人間対機械といった構造ではない関係が実に自由きわまりない。

「犬」では、人間と犬の壮絶な戦いが繰り広げられる。犬は、犬であったり犬の姿のまま人間のように進化したり、自由奔放に能力を変えながら人間を翻弄する。

「棒」では、人間の棒(物質)への変形・変体と人間が道具化することの疎外感のようなものが描かれている。

「盲腸」は、人間と動物の融合であり、「鉛の卵」は、人間と植物の融合による進化を描いており、それによって人間の意識や思想が影響を受けていく。これまで人間が当たり前だと思っていた観念が、動物や植物と融合することでどうなっていくかを検証しているかのようで興味深い。

「変形の記録」「死んだ娘が歌った‥‥」は、生と死の境界を越えて、死者を生者のようにあつかったり、観念の固まりとなって物体としての体や生者の側を見たりする。この2つの作品は、戦後の日本社会が抱えた問題とも絡み合っていてその社会性も見逃せないのだが、安部さんの手にかかれば、単なる社会問題の提起や記録という域を大きく越えた文学的作品へと昇華する。

こうした境界を越えていく手法は、安部さんの発想の自由さから来るのだろうか。私たちの想像力をぶっちぎったその発想は、既成概念を当たり前のように溶かしてしまう力がある。

12編の中では、「鉛の卵」と「人肉食用反対陳情団と三人の紳士たち」が、私には面白かった。どちらもシュールな会話がポイントだ。

「人肉食用反対陳情団と三人の紳士たち」は、人肉食主義者の三紳士とそれに反対する団体代表の押し問答である。人肉食に反対する武器は“道徳”であるのだが、紳士たちに道徳は全くもって通じないのである。人肉を食用とすることが何故いけないのかという根本がさっぱり理解できないのだ。この問答のシュールさは、合理主義の行きつく先の狂気のようなブラックユーモアを感じさせて大変に面白かった。陳情団の代表がなぜか気の弱いところがなんだかまた笑えるのだ。

「鉛の卵」は、1987年に冷凍保存された一人の学者が100年後に出てくるはずが、何かの間違いで80万年も経ってしまって出てきたというお話。そこには高度な文明を持つ緑色の現代人がいて‥‥。古代人と植物化した現代人のやりとりが、いかにも人と植物との間で感覚がずれていて笑ってしまう。価値観の転換や立場のひっくり返りがあって作品としても大変に面白い。

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2012.05.12 | 安部公房 | トラックバック:(1) | コメント:(4) |

辻村深月さんの「ぼくのメジャースプーン」です。


《文庫本裏表紙より》
ぼくらを襲った事件はテレビのニュースよりもっとずっとどうしようもなくひどかった――。
ある日、学校で起きた陰惨な事件。ぼくの幼なじみ、ふみちゃんはショックのあまり心を閉ざし、言葉を失った。彼女のため、犯人に対してぼくだけにできることがある。チャンスは本当に1度だけ。これはぼくの闘いだ。


挑戦してるなぁ、辻村さんは。

十歳の「ぼく」は、特殊な能力を持っている。
ある日、学校で起こった残酷な事件に巻き込まれて、幼なじみの大切な人「ふみちゃん」が心を閉ざしてしまう。犯人は、医学部の学生で、起こした事件やその被害者をエンターテイメントとして消費するような「悪の王様」だ。
「ぼく」は、特殊な能力を使って犯人に罰を与えようと考えるのだが、同じ能力を持つ親戚の「先生」に、能力のことを教わりながら、先生と対話を繰り返して、どうすべきかを考え抜いていくお話だ。

復讐とは何か。これは誰のための復讐なのか。動物を殺し、人の心を深く傷つけた犯人に与える罰として何が相応しいのか。能力を使って罰を与えることは正しいことなのか。動物を殺すことは悪いことなのか。動物の命と人の命はどう違うのか。人は自分のためでなく他人のために泣くことができるのか。

先生との対話を通じて、深い、難しいテーマが次から次に表出する。これほどに道徳的というか、哲学的というか、取り扱いの難しいテーマに、それも十歳の少年を主人公に据えて、真正面から切り込んでいく。先生からの容赦のないストレートな問題提起とそれに答える少年の揺れながらも芯の座った思考という、なかなかの迫力ある厳しいやりとりが印象的だ。

作家として、テーマを掘り下げていくぼくと先生との問答に多くのページを費やして、正攻法にど真ん中から問題に挑んでいく姿勢には恐れ入る。

「ぼく」の出した結論が正しかったかどうか別として、これほどに根源的な問題を取り扱った本作はあまりに力強く、著者の意気込みと力量に感じ入る、身震いするような傑作だった。
そして、最後には、衝撃と感動とともに愛とは何かを考えさせられるのだ。

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2012.05.08 | 辻村深月 | トラックバック:(1) | コメント:(4) |

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