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吉田篤弘さんの「78(ナナハチ)」です。
「その昔、もうずっと昔のこと、世界は78回転で回っていた。」ではじまる不思議な雰囲気のお話。

《文庫裏表紙より》
その昔、世界は78回転で回っていた ― 。
「78(ナナハチ)」という名の一風変わったSP盤専門店を主たる舞台に、置き手紙を残して失踪した店主、店の常連客の若者 ― ハイザラ・バンジャック、二人が思いを寄せる女性・カナたちのお話が進んでいくにつれ、大昔の伝説の楽団「ローリング・シェイキング&ジングル」、〈失意〉を抱える作家、中庭と犬をこよなく愛する老人、未完の曲を残したまま消息を断ったチェリスト、その父を探す息子、「夜の塔」という名の七重の塔に棲む七人の姉妹の様々な時間・場所の物語が響き合う。


小学生からの親友同士であるハイザラとバンシャクの冒険物語にはじまり、そこで拾った一枚のSP盤と二人が再会するSP盤専門店を拠り所に、毎回語り手を変えながら13の物語が語られて、それぞれが微妙にいろいろな形でリンクして共鳴するような構成になっている。

短編が少しずつ重なり合って一つの物語を作る手法はよくあるのだけれど、この作品は、共鳴の仕方が実に多彩であり、直接登場人物がリンクするものもあれば、SP盤を通じてリンクするもの、音楽を通じてリンクするもの、なんとはなく同じような人間関係でリンクするもの、ちょっとした小物でリンクするもの、‥‥‥実に自由に奔放に、時間も場所も思い切り飛ぶし、かなりいい加減に関係性を持たせているところが特徴であり、それでもなぜか全体にレトロモダンな音を奏でる物語たちが不思議な連鎖を見せて化学反応を起こし、一つの大きな作品をつくりあげているところが素晴らしいのだろう

しいて言えば、ある程度テーマを持ったいろいろな曲で構成された一枚のレコード(アルバム)のような作品でもある。

文章は、吉田篤弘さんならではの丁寧で優しい言葉の積み重ねと心地よいゆったりとしたリズムを刻んでいて、安らかな時間を与えてくれる。
今回は特にSP盤のレコードという媒体イメージとも合わさりながら、背景にスタンダードな音楽が流れるような、それも独特の回転数を感じさせている。

前半は、少し昔の現実のお話が中心で、わかりやすくて懐かしい感じが馴染みやすく、登場する場所や小物の味わい深い感覚とともに、おもしろく読むことができる。
後半になると、寓話的な、どの時代のどこ国なのかわからないようなエピソードが多くなってきて、それはそれでおもしろいのだけれど、前半のお話とのギャップに少し馴染みきれず、多少の違和感を感じながら読んだ。

どちらにしても吉田篤弘さんの作品は、あとにじんわりと残る感じがする。
作品では、そのテーマでもある消えてしまったもの、消えてしまいそうなものの痕跡が表現されているのだが、同じような感覚が、このお話を読んだ自分の頭の中でも起こっているのだ。
読み終えた後に、ストーリーはあいまいでそのうち忘れてしまいそうなのだが、心地よい感触は胸の中にずっと残っていきそうな気がする。

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2012.04.30 | 吉田篤弘 | トラックバック:(0) | コメント:(4) |

「趣味は?」と聞かれたら、「本を買って置き場に悩むこと」と答えている。

事実、自分の書斎には、ずいぶん前から本を並べるところがなくなってきていて、なのについつい買ってしまうので、本当に本に埋もれてきている。
だが、この、本が本棚からはみ出しながら(物理的な話)眼前に迫ってくる様がまた良いのだ。なんだか本たちに切実な眼差しで見つめられているようで、どうにも心地よい。

なぜなのか。

それは、この本たちが、たぶん自分自身の投影だからだろう。
自己分析してみると、自分は「こういう本を読んでいる読書好きな奴だ」ということに、なんとはなく陶酔しているのだと思われる。
私の書斎に家族以外の人が来ることはほとんどないので、どう考えても、この本たちは、自分に見せているのだと理解する。

内田樹さんが、著書の『街場のメディア論』で同じようなことをおっしゃっていた。
内田先生曰く、「自分の本棚は僕たちにとってある種の「理想我」だからです。『こういう本を選択的に読んでいる人間』であると他人に思われたいという欲望が僕たちの選書を深く決定的に支配しているからです。だって、書棚に並んだ本の背表紙をいちばん頻繁に見るのって、誰だと思いますか。自分自身でしょう。自分から見て自分がどういう人間に思われたいか、それこそが実は僕たちの最大の関心事なんです。」

強く同意!そうだよ、本は本棚に並べるために買うのだよ。
さすがに、我らの想いを美しく論理的に語ってくれる。
本棚に並んだ本の背表紙を一番頻繁に見る自分に向かって、「自分がどういうものを読む人間に思われたいか」そういう自分の願望が本棚には表れている。
選書と配架におのれの知的アイデンティティがかかっているのだ。

内田先生はこうもおっしゃっている。「電子書籍について論じるときに、誰ひとり「書棚の意味」について言及しないことです。(中略)だって、本といったら『書棚に置くもの』でしょう。でも、電子書籍は書棚に配架することができない。」

その通り。私も、電子書籍は、原則買わないだろう。私にとって本は読むだけのものじゃなくて、本棚に並べるもの(実際は並び切れてなくてあちこち積んであるのだが)でもあるのだ。

まあ、紙の感触とか、手触りとか、装幀とか、紙に印字された活字の印象とか、そういったものが無性に好きだという好みの問題も当然あるのだけれど。でも私が紙の本を買うのはそれだけではない、なんとも奥深い自我の根源的な意識がはたらいているのだ!と納得して、今日も置き場に悩むのである。

【関連記事】現実逃避と並行読みの読書

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2012.04.29 | 本と読書について | トラックバック:(0) | コメント:(10) |

瀬尾まいこさんの「僕らのご飯は明日で待ってる」です。
教職を辞されてから発表されたはじめての作品でしょうか。


《amazon内容紹介》
葉山イエス。イエスはあだ名。何に対しても心が広い、キリストのような奴だから。でも実際は、人に対して無関心だっただけ。趣味(?)は黄昏と自分探し。
上村小春。唐揚は苦手だけど、ケンタッキーは好き。ポカリ派。自分をしっかり持っていて、決めた事は覆さない。でも、おばあちゃんの言葉は日本国憲法より重い。

流されるがままの男子と、頑なまでに我が道を進む女子。ちっともイマドキでもなければ情熱的でもない高校生の二人は、体育祭の競技“米袋ジャンプ”がきっかけで付き合う事になった。大学に行っても、“恋愛”と言って良いのか分からない淡々とした関係を続ける二人だが、一つだけ自信を持って言えることがある。それは、互いを必用としている事。
でも人生は、いつも思わぬ方向に進んで行き……。
笑って、泣いて、じんわり温かい。読者の心に春を届ける、著者の魅力がぎゅっと詰まった優しい恋の物語。


何がこれほどまでに、愛すべきキャラに仕上げているのだろうか。

高校生の時は暗くていつも黄昏れていた主人公のイエス。自分をしっかり持っているが、何事にも歯切れが良すぎて優しいんだか冷たいんだかよくわからない上村。二人とも、一風変わった性格なのだが、読んでいるとなんだかかわいくてほっこりしている。ついニンマリしてしまい、心がほぐれる気がする。

今回の作品でも、いつも変わらない瀬尾さんの登場人物への温かな眼差しが感じられる。そう、瀬尾さんの作品を読むと感じるのだが、登場人物のタイプは違っていても、いろんな人のいいところを見つけようとする幸せな視線が常に働いていて、それが物語全体の優しさを育んでいる。

二人は恋愛のようなお互いを理解し合う関係を築いていくのだけど、その二人の会話は実に淡々としている。そっけないと言ってもいいくらいに、くどくない、さらっとした小気味いい会話が本作の芯をなしているのだ。

そこには、「ポカリ」とか「ケンタッキー」とか「浅見光彦」とか「東京ウォーカー」とか「日本国憲法」とか、なにやらキーワードが散りばめられてところどころでキラキラ光ってアクセントになり弾んでいるし、何度も唐突な展開に振り回されるのもなぜか心地よい。

難しい言葉は全然でてこなくて、頭にスーと入ってくる。こんな会話のリズムと独特の質感、キーワードと穏やかな揺さぶりに乗せられて、読者の二人への愛着はじわじわ高まっていくのだ。

瀬尾さんの文章の凄いところは、二人の気持ちの奥にある何か大切なものをサラリとシンプルな会話に載せてしまっていることだ。それは、読むのにほとんど力を要しないのだが、確かに感じられる。それがいい。

だから、瀬尾さんの描く世界にいるとホッとする。読み手もそこに受け入れられているように、当たり前のように物語の世界に馴染んでいくのだ。

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2012.04.27 | 瀬尾まいこ | トラックバック:(1) | コメント:(0) |

精神科医で立教大学現代心理学部映像身体学科教授である香山リカさんの「弱い自分を好きになる本」です。

前向きな思考、競争や成長、強い意志などを求める本が多いなかで、「弱くても何の問題もない、その弱さこそあなたの魅力だ」と呼びかける本書は、この本自体が著者の言う「人を安心させる優しい魅力」に包まれている。

気が小さくて落ち込みやすく、日頃から自分のことをとても「弱いなぁ」と自己嫌悪に陥ってしまっている私には、当てはまることが多いので読んでみた。

必ずしも著者の分析に私自身がぴたりとはまったわけではなかったので、納得がいってスッキリしたとか、自信がついたとまでは言えないのだけれど、一人ひとりの持つ弱さや悩みに寄り添い、それでいいよと言い続ける著者の姿勢は基本的に好きなのだ。

「あなたが悩んでいる心の弱さが、他人を思いやれる本当の優しさでもある」と、「あなたのその性格が人を安心させているのだ」と著者は語りかける。

そして、いろんな場面 (職場や学校、親子関係のストレスなど) に即した工夫や考え方などのアドバイスが、とても優しくてあったかな言葉で綴られている。

さて、弱い自分を好きになれるのか。
それは、人それぞれだろうし、私自身はこれを読んだら、弱い自分がだんだん好きになってきたというわけではない。

だけど、こういう考え方をしている人がいる。それも識者と言われ、多くの人の共感を得ている人の言葉だから、影響力がある。
こうした考え方が受け入れられて、少しでも、じわじわとでも広がっていけばいい。社会の根底のところで、そっと根を下ろしていってほしい。
そのためにも「こういう考え方っていいよね!」という声が、あちこちでつぶやかれると嬉しいのだ。

弱い自分を素直に出せる心優しい場や関係があちこちに生まれ、弱い自分を受け入れてくれるあたたかな環境が、寛容で大らかな社会が育まれていくことを期待したい。

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2012.04.26 | 香山リカ | トラックバック:(0) | コメント:(0) |

飯田哲也さんの「エネルギー進化論」―「第4の革命」が日本を変える― です。

地域の先進的な自然エネルギー推進の取り組みをサポートしてきた飯田哲也さんによるエネルギー政策を地域から再考するための指南書だ。

結論的なところから言えば、従来の中央集権構造を解体し、地域の中で、地域の住民自身がエネルギーをつくっていくような流れを生み出す(中央管理型から地域分散型への)パラダイムシフトという文明的な挑戦を試みるエネルギーシフト構想をめざそうと提案している。

それは、情報がインターネットという分散型の仕組みとして始まったように、あるいは、マネーの世界でもリーマンショックを契機として、投機的なお金の使い方から、目に見える形で地域内で循環させる方向性へと志向されているように、エネルギーも大転換の地点にあり、それは地域から変革の波が起こるということだ。

本書では、まず、自然エネルギー懐疑論への反論からスタートする。
化石燃料などのコストが変動し、高騰するなかで、「自然エネルギーは、唯一、コストの下がるエネルギーである」こと、「コストを長期固定できる」こと「「自然エネルギーは変動するベース電源である」こと、「持続可能なエネルギーである」こと、などを解説している。

そして、自然エネルギーの爆発的な躍進は、農業革命、産業革命、情報革命に次ぐ「第4の革命」と呼ぶことができるとし、世界における自然エネルギーの歴史を振り返りながら、その牽引役を果たした、アメリカのカリフォルニア州の電力買取制度を活用した風力発電の爆発的な普及やソーラーパイオニアというプログラム、デンマークの風力発電を送電線につなぐ系統連係の実現、風力発電協同組合の発足、三者合意による固定価格買取制度の実現、それに続く1990年代のヨーロッパにおける環境エネルギー革命(ドイツ固定価格買取制度(FIT)、北欧諸国のバイオマス導入政策)などについて解説されている。

一方、日本ではなぜ自然エネルギー活用が進まなかったのか?
著者は、2000年前後からはじまる日本の自然エネルギー暗黒時代を「失われた10年」と呼んでいる。
世界の自然エネルギー政策の動きに対し、全くの無視を続けた通産省をはじめとする官僚機構、失われた10年を作った「新エネルギー特別“阻止”法(措置法)」、日本の電力10社による地域独占体制(地域独占、垂直統合)、巨大企業である電力会社が地域経済団体を通じて地域政治に及ばす大きな影響などが、日本の自然エネルギーの普及を徹底的に遅らせたとする。

こうした中で、地域からはじまったエネルギー革命の動きを紹介している。
海外での先駆者であるカリフォルニア州やデンマークでの自然エネルギーの始点が、中央から離れた「ローカル」にあったこと。
様々な合意・決定手続きのシンプルさと「ゆるさ」により、こうした革命、変化は、周縁、すなわち地域から始まるのだ。

海外では、スウェーデンの人口7万人の都市ベクショーというコミューンがバイオマスエネルギーによる地域暖房を拡大する中心的役割を果たした。ドイツの人口25万の地方都市アーヘンでは、太陽光発電で作った電力を電気料金の13~15倍の値段で購入する制度をつくり、絶大なる効果を発揮する。また、スペインのバルセロナでは、新築・増改築の建物への太陽熱温水器の設置義務」という条例を実施し、国の法律にまで発展し、類似した法律は、ヨーロッパ各国に広がる。

日本では「失われた10年」の中で、東京都が常に国に先んじ、圧倒的な機動力で日本の再生可能エネルギー戦略を牽引してきた。
その他、著者が関わってきた「北海道グリーンファンド」「飯田市の市民出資の発電所」「祝島“自然エネルギー100%”プロジェクト」などが紹介されている。これらは、市民出資や寄付による仕組みを作りあげて事業を成立させていること、地域から新しい制度を提案しているところにポイントがある。

最後に、これからの日本のエネルギーシフトのシナリオを提案している。2020年には、原発を「0」にし、自然エネルギーを30%、省エネ節電20%、化石燃料で50%にする。2050年には、化石燃料も「0」にし、省エネ節電をさらに進め、電力は自然エネルギーですべてまかなうというものだ。
ポイントは、エネルギー効率を改善することにある。熱を逃がさない工夫などにより、我慢するのではない、社会全体で「電力を減らす豊かさ」を実現していくことだ。

そして、地域は、自然エネルギーを一つの生産物として、産業として育てていく。
外国から買った化石燃料でなく、地域の中でお金を回していきながら地域がそれぞれ電力をつくり、地域間で融通し合うネットワークをつくり、開かれた地域自立の自然エネルギーのかたちを創ることが重要だとしている。

こうした、地域主導、分散型の方法へと、エネルギー政策を変えていくことが、環境の視点からも、地域経済の視点からも、安心できる暮らしの視点からも重要なのだと思う。
地域から動くことこそ大切だ。
市民一人ひとりが参画すること。そして地域の企業や金融機関、自治体などがパートナーとなり、地域のソーシャルキャピタルを強めながら、取り組むべき重要課題だ。
私たちも、その中でしっかりとした役割を見つけて動いていきたいと思う。

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2012.04.21 | 地域づくり | トラックバック:(0) | コメント:(0) |

奥田英朗さんの「我が家の問題」です。

どこにで​もありそうなちょっとした家庭の問題。みんないろんな悩み​を抱えながらも暮らしている。そこから派生、発展していく夫婦の心​の通い合いをゆるやかに優しい視線で描いた短編集である。


新婚なのに、完璧すぎる妻のおかげで帰宅拒否症になった夫。
どうやら夫は仕事ができないと気づいてしまった妻。
両親が離婚するらしいと気づいてしまった娘。
UFOを見た、異星人と交信していると言いだした夫に悩む妻。
里帰りのしきたりに戸惑う新婚夫婦。
妻がランニングにはまってしまった理由をだんだんと理解していく夫。

誰の家にもきっとある、ささやかだけれど悩ましい6つのドラマである。

本作は、柴田練三郎賞を受賞した『家日和』の流れを汲むホームドラマの第二弾だ。
家庭の平凡な生活を描くのはなかなか難しい。だが、そこはさすがに奥田さん。男女の絶妙な心理描写を積み重ねて、夫婦や家族の微妙な距離感を描き出しながら、読み手を飽きさせない物語として仕上げている。

全般に妻の活躍が目につく。彼女たちの常に前向きな姿勢、夫を、家族を思いながらひたむきに努力をしている姿に胸打たれる。
そして、奥田さんのフラットな視点がとてもいい。

すっごいおも​しろいって訳じゃないのだけれど、なんとなく気持ちの端っこに納​得感の宿るあったかなお話たちである。

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2012.04.18 | 奥田英朗 | トラックバック:(1) | コメント:(0) |

神奈川県知事である黒岩祐治さんの「地産地消のエネルギー革命」です。

元キャスターであり、ジャーナリストの黒岩さんは、2011年4月の知事選挙で「神奈川県からエネルギー革命を興す」ことを旗印に、「脱原発」を訴え、「太陽光発電/四年間で200万戸分のソーラーパネルを!/夏の需要に間に合わせ5万~15万戸分を!」との一点突破型のマニュフェストを唱えて知事選に当選した。

知事となった彼の口癖は、「圧倒的なスピード感」となり、さらに「想像を絶する圧倒的なスピード感」へとバージョンアップしていく。

本書は、大きく3つの内容で構成されている。

はじめに、神奈川県知事として進める「エネルギー革命」の中身を語っている。

脱原発」と「太陽光発電」を掲げて当選した選挙時の思いから、知事となって、早速、夏の冷暖房需要に間に合わすための「太陽光発電」の補正予算を組み、「かながわソーラープロジェクト」を稼働させ、実現する手段として「神奈川ソーラーバンク構想」を訴え、「神奈川スマートエネルギー構想」へと展開していく政策を解説している。
確かにスピード感が際だっている。

神奈川県約400万世帯の半分にあたる200万戸に普及するという目標値を掲げて、自己負担なしでもつけられるようにと「ソーラーバンク構想」を立案する。
この素早い動きに反応したのがソフトバンクの孫正義氏である。
すぐに「黒岩祐治を男にするために全力でサポートしたい」と動き出す。メガソーラー推進のための知事連合の提案をするのだ。
神奈川県を含む四県への孫氏によるプレゼンではじまった知事連合の自然エネルギー協議会は、35府県の連合になり、2011年7月には「秋田宣言」をまとめるにいたる。

その後、8月には再生可能エネルギー特別措置法」が成立し、再生エネルギーの普及を支える制度的な裏付けが徐々に整いはじめた。
太陽光発電からスタートした政策は、「創エネ・省エネ・蓄エネ」の政策パッケージによる地産地消のエネルギー政策「かながわスマートエネルギー構想」へと展開されていく。エネルギーで革命が起きる。しかもそれは、生活や産業に関連するまちづくりにつながるとの考えを政策として構築するものだ。

さて、本書の中盤は、エネルギー政策の動向と様々なタイプの再生エネルギーの最前線と可能性、蓄電やスマートグリッドなどの省エネ・蓄エネの技術革新と政策の動きについてまとめている。

さすがに元ジャーナリストだけあって、要領よくまとめられている。
内容的には、他の再生エネルギー関連の著作と共通するものであって目新しくはないが、太陽光発電とともに、省エネ・蓄エネの分野では、要所で神奈川県として実際に進めている政策が盛り込まれているので、説得力はある。

例えば、電気自動車(EV)の蓄電池を家庭用に再利用する「蓄電プロジェクト推進事業」や、EVユーザーと充電インフラ事業者を県が仲介者となってつなぐ「EVサポートクラブ」の設立、エネルギーの供給側から需要側までの総合的な社会システムの中にスマートグリッドやEVなどの最先端技術を投入して新しい都市マネジメントの形を横浜市と民間五社が実際の市民生活の中で実証していく「横浜スマートシティプロジェクト」、パナソニックが藤沢市と展開する「Fujisawa サスティナブル・スマートタウン構想」などである。

本書の最後には、地産地消のエネルギー革命によって、今後、都市が、社会がどのように変わっていくのかを予測し、県知事としての意気込みを語っている。

特に、コンパクトシティの推進により、都市への人口集積が他国(特にアジアなど)とは違う形で進む一方で、インフラの更新需要が起こるこれからの日本において、エネルギーがボトルネックとなることを指摘し、それを解決するのがスマートシティであるとする。
それは、エネルギーからはじめて、行政、交通、教育、医療、水道などのサービスに波及させ、効率化していくもので、民間資本の導入を誘引する魅力ある都市づくりが重要であるとしている。

さらに、21世紀の産業は、社会問題を解決するソリューション型の産業が発展するとし、「環境エネルギー産業」と「ライフイノベーション産業(医療、介護、健康など)」という二つの産業クラスターを形成したいとしている。
めざすのは、「住めば住むほど環境がよくなり、健康になる街づくり」だとする。そのハードウエア、インフラストラクチャーこそがスマートシティ構想であるのだ。

国内では太陽光発電が大きくニュースになり、動きが活発だが、量産化によるコストダウンへの期待と買取価格とのバランスがまさに今調整されているところである。
ただ、地域における最適な形は、地域やライフスタイルによって違ってくるということを理解しないといけない。地域の状況を踏まえてきめ細かに開発し、活用を図っていくことになり、そこに地域の自治体がエネルギー政策を積極的に展開していく意味がある。

地域で地域のエネルギー事情に即応した再生可能エネルギーを総合的に構築する、そんな地産地消のエネルギーが、新たな雇用を発生させるような仕組みを構築したいものである。それは地域の事情を熟知した地域の企業、住民、自治体が中心となる事業のはずであり、本題である「地産地消のエネルギー革命」の成果がそこにあると思う。

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2012.04.16 | 地域づくり | トラックバック:(1) | コメント:(0) |

森見登美彦さんの「有頂天家族」です。

京都・糺ノ森に住む狸の下鴨一家。宝塚歌劇を熱愛する母狸。生真面目だが土壇場に弱い長兄、蛙に化けて狸に戻れなくなり井戸暮らしの次兄、面白く暮らす主義の三男、化けてもつい尻尾を出すが携帯の充電ができる末弟。
さらに、落ちぶれてアパート暮らしの天狗・赤玉先生。赤玉先生を追いやった鞍馬天狗たち。天狗を袖にし空を自在に飛び回る半天狗の美女・弁天。敵対する意味不明な四文字熟語が好きな兄弟・金閣と銀閣、姿を現さない元許婚の海星など、愛すべきキャラ満載で巻き起こす奇想天外、荒唐無稽なファンタジー。

ぜひとも映画にして欲しいスペクタクルな名シーンがいっぱいなのだが、森見さんの言葉として活字で読むからこその面白さなのかもしれないとも思ってしまう。
「夜は短し歩けよ乙女」との絡みもあって森見ファンにはいつもの世界観も楽しめる。
最後は駆け抜けるようなテンポのよさとリズム感に引き込まれて見事に感動させられちゃうのだ。

狸というキャラに使い方が秀逸。
「面白きことは良きことなり!」と言いつつ脳天気に暮らしながらも、金曜倶楽部の狸鍋に怯え、天狗に憬れ、弁天様に振り回される毛玉たち。
大活躍する狸の家族たちだが、そこは「阿呆な」狸のやること、なにかとちょっと間抜けたところがキュートで愛らしかったり、切なくてホロリときたり、衝撃的なシーンにキュンと胸を掴まれたりして、たまらない。

これだけ、やりたい放題な馬鹿騒ぎで引っ掻き回しておいて、無茶苦茶な世界を描きながらも、家族愛のお話として見事に纏めあげる森見さんの筆力と構成力の高さには感嘆するしかない。

森見さん渾身の傑作だと思う。

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2012.04.15 | 森見登美彦 | トラックバック:(0) | コメント:(4) |

安部公房さんの「人間そっくり」です。
「人間そっくり」の初版は、昭和42年の早川書房「日本SFシリーズ」の一冊として出版されたものだそうだ。


〈カバー裏表紙より〉
《こんにちは火星人》というラジオ番組の脚本家のところに、火星人と自称する男がやってくる。はたしてたんなる気違いなのか、それとも火星人そっくりの人間か、あるいは人間そっくりの火星人なのか?火星の土地を斡旋したり、男をモデルにした小説を書けとすすめたり、変転する男の弁舌にふりまわされ、脚本家はしだいに自分が何かわからなくなっていく・・・。異色のSF長編。


大部分がアパートの一室での、脚本家の主人公と、「ぼく、火星人なんですよ」と自称する男との会話で成り立っている。
自称火星人の男の饒舌さは見事なもので、巧みに話を二転三転させながら、科学的、数学的な知識を織り交ぜたり、論理を振り回したりして、主人公をアリ地獄のように迷宮の世界に引きずり込んでがんじがらめにしていく。

それは、主人公だけにではない。読者である私自身も翻弄され、混乱してきている自分を自覚しつつも、読むのをやめられないでいる。

ここでも、安部作品の中核をなしている「人間の不安の感情」が主人公を取り巻いて離さない。図々しい自称火星人の男は、隙を見せるたびにズンズンと心の中に踏み込んでくる。不安の気持ちをいろんな角度からつつき回されて、広げられて、ひっくり返されて、自分の存在自体があやふやで心もとないものへと変わっていく。

とても奇妙な小説である。
読んでいてなんとなく落ち着かない。
読者自身をも不安定な状態においておくところが、この小説の面白さだ。
また、多くの部分で、会話とト書きのような構成をとっており、小説というより、舞台を見ているような臨場感がある。

現実と非現実、正気と狂気の境界が次第にあいまいになり、いつのまにか逆転していく過程を体感させながら、論理的な思考実験を小説の世界で実現している希有な作品である。

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2012.04.14 | 安部公房 | トラックバック:(0) | コメント:(0) |

吉田篤弘さんの「それからはスープのことばかり考えて暮らした」です。
「つむじ風食堂の夜」に続く月舟町三部作の二番目の物語。


《文庫カバー裏面より》
路面電車が走る町に越して来た青年が出会う人々。商店街のはずれのサンドイッチ店「トロワ」の店主と息子。アパートの屋根裏に住むマダム。隣町の映画館「月舟シネマ」のポップコーン売り。銀幕の女優に恋をした青年は時をこえてひとりの女性とめぐり会う―。いくつもの人生がとけあった「名前のないスープ」をめぐる、ささやかであたたかい物語。


文体は優しくてまったりとした質感が心地よく、ささやかでこぢんまりとしながらも上質な物語を綴っている。

これといって大きな出来事は何も起こらないのだけれど、嫌味な人が一人も出てこない安心感にすっぽりと浸りながら、ゆっくりと流れる時間を心おきなく堪能できる。

ああ、月舟町の住人になりたい。

だんだんとこの町が頭の中に描かれてくる。でもそれはかなり勝手な私的妄想の入った町であって、吉田篤弘さんの描いた町とは異なっているのかもしれないが、だからこそ余計に馴染みのよい町の姿が自分の中に構築されていく。

この小説の心地よさは、自分の中の記憶の底のところをくすぐるような、忘れかけていた思い出とか、懐かしさを呼び起こすような‥‥‥大学の時に過ごした路面電車が走る町とか、子どもの時に遊んでいた路地裏やお寺の境内とか、材木店だったわがやの丸太置き場だとか、王冠を拾いに行った近所の酒屋の裏庭だとか、中学生の時通い詰めていた古い映画館だとか‥‥‥、そういったいろいろなあたたかな良い記憶の連想を引き起こしてくれる力にあるのかもしれない。

心穏やかでないとき、なんとなく不安感に苛まれているとき、塞いだ気持ちをあたためながらほぐしてくれる良薬でもあり、温かなスープのようでもある。

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2012.04.13 | 吉田篤弘 | トラックバック:(0) | コメント:(1) |

ジュディ・ダットンさんのノンフィクション作品「理系の子」です。


高校生科学オリンピック「インテル国際学生科学フェア(ISEF)」に出場した理系少年少女たちの記録である。
サイエンス系のノンフィクションでこれほどまでに感動させられるとは正直思わなかった。様々な環境の中で、幼い心を奮い立たせ、熱中して研究に打ち込む少年少女たちの姿と、それを支え続ける周囲の大人たちの有り様が胸を打った。

「サイエンス・フェア」は、アメリカで盛んなイベントで、中高生が科学の自由研究を競うコンテストだ。州ごとはもちろん、もっと小さなコミュニティでも開かれており、その最高峰がサイエンス・フェアのスーパーボールと呼ばれる「インテル国際学生科学フェア」である。世界50カ国から1500人、提携された認定サイエンス・フェアを勝ち抜いた中高生たちが集まってきて6日間をかけて成果を競い合う巨大イベントなのである。
日本では、讀賣新聞社主催の「日本学生科学賞」と朝日新聞社主催の「高校生科学技術チャレンジ(JSEC)]の二つが認定されている。

その規模の大きさといい、内容の凄さといい、驚くべきものである。賞金総額は四百万ドル以上(3億円以上)、研究によっては政府機関や企業から引き合いがあり、出場者の五人に一人は特許を出願する。なかには総売上千二百万ドルにのぼる会社を興した少年もいる。

著者ダットサンは、ISEF2009に出場した6人に取材し、過去にサイエンス・フェアで伝説的な少年少女の話を加えてまとめた。それぞれの子どもの性格や家庭の事情まで、実に丹念にインタビューしており、訳者の力もあると思うが文章も平易で、中高生でも読むことができる良書となっている。

ざっと、紹介されている少年少女たちを見出し的に概観しただけでも十分に驚かされる。

◎十歳で爆薬を製造し、父に頼んでガイガーカウンターをもらい、師や協力者を得て、14歳で「核融合炉」を製作してしまった少年テイラー。ここでは、高校を中途退学するずば抜けた才能を持つ子どもを受け入れて独自の教育を行うデイヴィットソン・アカデミーの存在が大きく、テイラーの成功に貢献している。

◎ナヴァホ族保護特別保留地の貧しい家庭で喘息で苦しむ妹のために、廃品のラジエーターやゴムチューブ、炭酸飲料の缶などから新しいタイプの太陽エネルギー回収装置を作りあげた少年ギャレット。ナヴァホ族、ネイティヴ・アメリカンとしての誇りを持って取り組んだギャレットの功績は、ナヴァホ族の子どもたちを刺激し、後に続く者たちがでてきている。

◎全米で150人しかいないハンセン病に感染してしまってもへこたれずに、相棒となる友だち(共同研究者)を得て、自らの「らい菌」が治療によってどのように減るのか、そしてハンセン病を徹底研究して差別意識の一掃に挑んだ少女BB。

◎少年院では、暴動などが起こる環境の中で、凶器となり得る鉛筆やはさみさえ所持を制限されながら、惑星と衛星の生命の痕跡を調べあげた少年がいる。サイエンス・フェアにも拘束具を付けて移動するような特殊な環境なのである。ここでは非行少年たちの眠れる才能を発掘しようと奮闘する教師の姿が素晴らしい。

◎2歳の時にサンタに延長コードを頼んだという電気オタクのライアンは、バーガーキングにいた耳の不自由な女の子が手話のできる大人に付き添われないと何もできない状況を見て、彼女を助けたいと思い、宙にアルファベットを描くとテキストに変換されて液晶ディスプレイに表示される手袋を発明した。彼には、毎週研究の相談相手となってくれていた老物理学者ジョン・マコーネルとの出会いがあった。逆にライアンとの出会いが、子どもたちに科学の面白さを伝える「ジョン・マコーネル数学/科学センター」につながっていく。

◎自閉症の従姉妹との交流を通じて、彼女のために画期的な教育プログラムを生み出した少女ケイラ。彼女の教育プログラムは、特許を申請し、カナダとアメリカの多くの特別支援学級で実践することとなった。彼女は、自閉症児の特異性こそ一番素敵なところだという。

読後にまず思ったのは、アメリカの科学教育とその環境の充実ぶりだ。
2009年にオバマ大統領は、毎年サイエンス・フェアを開催する旨を発表し、「次の十年間で理科と数学の成績を世界の平均レベルからトップレベルに引き上げる」努力をすると述べた。「若い人たちに科学がかっこいいものだとわかってもらいたい」と発言している。

本書の最後に、最も大切なことが書いてある。
成功するために子どもたちに必要なのは、やりたいことをやる。それだけなのだ

子どもたちがやりたいことをやる。そのために、例えば本書に出てくる様々な学校では、こうした才能溢れる(ある意味で特殊と扱われる)中高生たちを受け入れるその多様性というか柔軟性というようなものを有している場合が多いし、学校設備の充実ぶりも目に付いた。

また、周囲の大人たちも重要な役割を果たしている。
まず、なんといっても親が邪魔をしない。子ども扱いをしない。子どもたちがやりたいことをやるために、積極的にサポートする親もいれば、そっと見守る親もいる。可能な限り彼らに環境を提供しようとする。そして、才能を伸ばしてやるための様々な大人との出会いが彼らの大いなる成功を育んでいるのだ。
より多くの子どもたちが、こうした環境に恵まれて欲しいものである。

本書は、子どもを持つ親や教育者などの大人だけでなく、子どもたちにも読んで欲しい。
科学はこんなにもかっこいいものだ

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2012.04.09 | サイエンス | トラックバック:(1) | コメント:(0) |

花里孝幸さんの「生態系は誰のため?」です。


生態系」に対する正しい理解というものがいかに難しいものなのか、様々な善意で行われている環境保全活動や環境教育がいかに人間の好みに左右されているか、「生態系レベルで自然環境を見る目を持つこと」の大切さと困難さを知るには良い本だった。

本書は、著者の研究分野である「湖」に住むプランクトンの生態系を中心に論じられている。湖の生態系は、森林や草地などに比べて、流入河川や流出河川がはっきりしているので、どのような物質がどれだけ湖に入り、出て行くのかを測定することが比較的容易である。生態系をひとつのシステムとして、その中で物質の循環やエネルギーの流れを研究する「生態系生態学」は、湖の研究がリードしているのだそうだ。

確かに、生態系を正確に捉えて分析することが、きわめて困難なことは容易に想像できる。ある範囲の森林は、隣接する草地や集落などとつながっているわけで、隔絶されているわけではなく、棲んでいる生物も必ずしも森林の中だけで暮らしているわけではない。また、森林では生物がとても不均一に分布しているはずだ。生態系というものをどう把握するのか、その研究がとても難しいことは私にもよく理解できる。

いくつか興味深い話が出てくる。
ひとつは「外来種の問題」だ。よく取り上げられるものにブラックバスがある。ブラックバスは、魚を食べる魚(魚食魚)であり、そのような食性の魚は日本の湖沼には少なく、生態系の中でその位置が空いていたのだろうというのだ。多くの外来種にとって、新たに入り込んだ生態系の中に自分の居場所を築くのは簡単ではないそうで、人々の目に映り、問題視された外来種は、国内に入った外来種のごく一部に過ぎない希な例なのだ。

一方で、全国の河川で「アユの放流」などが漁業関係者や環境保全イベントとしてよく行われている。しかし、多くのアユは琵琶湖産で、川のアユとは餌にするものが違う(※湖のアユはミジンコ、川のアユは付着藻類などを餌とする)など、生態系を攪乱する。そういう意味ではブラックバスと同じだと言う。

しかし、ブラックバスの放流は秘密裏に行われたのに対し、アユは漁業権を得た漁業者によって、公然と(多くの人に認められて)行われたという大きな違いがある。
もう一つの違いは、ブラックバスが魚を食べるのに対して、アユはミジンコや水生昆虫、付着藻類などを餌とする。人間は、ミジンコを食べる魚が増えて、付着藻類を食べる魚が減ってもあまり気にしないのだ。こうしたあまり目に見えない生物を軽視しているが、食物連鎖を通して、人間が重視している魚の命を支えていることを理解する必要があるという。

湖の水質浄化の話も興味深かった。
よく行われている水質浄化対策には矛盾がつきまとうというのだ。水質を汚濁させているのは大量に増えた植物プランクトンで、それを餌とするミジンコを増やし、ミジンコを食べれば魚が増える。水質汚濁問題が生じるような富栄養湖では、魚が多く棲んでいるのだそうだ。ここで水質を浄化すると魚が減るのである。「あちら立てればこちらが立たず」が常にあるのだ。

湖の富栄養化は、必ずしも悪いことではない。しかし湖底にたまったヘドロによって生じる環境が人間に嫌われるのだ。植物が生き残り、分布を拡大するには、人間に気に入られるというのがひとつの重要な要素になっている。

富栄養化したところでは、生物多様性が高いという。環境の不均一性が多様性を生む。陸上では熱帯雨林、海域では珊瑚礁。
人間にもこれは当てはまる。人間は化石燃料を見つけたことで爆発的に人口が増加し、生活形態や考え方などの多様性を生んだと著者は言う。化石燃料というエネルギーを大量に使って、人間独特の富栄養化を実現したのだが、これによって人間は生物界で圧倒的に特殊な存在になったのではないかと思う。

環境問題は、人間の感覚とか好みとかに左右される要素が多い。しかし、人間は生物界の中の一生物種として、異質な種である。滅菌処理された水だけを飲んでいる現代人は、他の動物と大きく異なる生物になってしまっている。このきわめて例外的な生物が、自分たちの生活環境を基準に、他の生き物の環境を考えていることが問題だと指摘している。

人間は化石燃料を使って、富栄養化していると言ったが、人間の活動を通して、結果として化石燃料に依存している野生生物が多いことに驚いた。
人間は化石燃料を使うことによって、人間社会のみならず、野生生物群集を、ひいては地球上の生態系全体を変えていると言われると、エネルギー問題を抱える今、いろいろ考えさせられる。

本書を読んで思う。
みんなが生態系の仕組みを学び、自分たちの暮らしとの関係を客観的に考えることができるようにすることがとても大切だ。だが、実際には大変に難しいのだろうなと痛感もした。

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2012.04.08 | サイエンス | トラックバック:(0) | コメント:(0) |

外山滋比古さんの「思考の整理学」です。
これは、1983年に書かれた本であり、近年の驚くほどの売れ行きをみても、たいへんに長生きな書籍である。


学校は、先生と教科書に引っ張られて勉強する「グライダー人間」をつくるが、自己飛翔能力を持つ「飛行機人間」はつくらない。そんなこっちゃ、学校はダメだねとちょっと控えめに言っているのだろう。
そしてみんなは、飛行機能力を高めていけるような方向に思考能力を鍛えようね、という『創造的な思考の整理』を提案するエッセイである。

思考は「朝飯前」が良いよ、とか、アイデアは「寝かせて発酵」させよう、とか、頭をよく働かせるには「忘れる」ことが大切、でも価値観をしっかりしてないと大切なことを忘れるよ、とか、とにかく悩んでないで書いてみて推敲しようね、とか...創造的に考えるための頷けるノウハウがいろいろ語られている。
著者と対話するつもりで、行きつ戻りつしながら読んでいると、ちょっとした頭の体操にもなる。

もうずいぶんと古い本なので既に世に浸透している理論も多い。
そういう意味では、まあ当たり前かなと思う事柄もたくさん出てくる。それほど感動的に目からウロコのノウハウが目白押しというわけではない。
それでも、その内容は、いまだに普遍性を有していること自体が本書の素晴らしいところなのだろう。

これは、ハウツウ本ではなくて、あくまでもエッセイなのだと感じさせる。エッセイとしての言葉の美しさ、軽やかな自由さが読み物としても魅力的な、外山さんの個人的な観点から「創造的な思考の整理」を論じた散文なのである。

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2012.04.07 | 外山滋比古 | トラックバック:(1) | コメント:(0) |

中村文則さんの「掏摸」です。
第4回大江健三郎賞の受賞作。

《amazon内容紹介より》
東京を仕事場にする天才スリ師。
ある日、彼は「最悪」の男と再会する。男の名は木崎かつて一度だけ、仕事をともにした闇社会に生きる男。
「これから三つの仕事をこなせ。失敗すれば、お前が死ぬ。逃げれば、あの子供が死ぬ……」
運命とはなにか。他人の人生を支配するとはどういうことなのか。そして、社会から外れた人々の想い、その切なる祈りとは。
芥川賞作家がジャンルの壁を越えて描き切った、著者最高傑作にして称賛の声続出の話題作! 


物語は常に、理不尽な悪に包囲されている。
絶対悪としての押しつけがましい論理、世の中にはびこる不条理なものが、掏摸という犯罪者でもある主人公に絡みついてきて離さない。

中村さんは、圧倒的な「悪意」を描く。そして、「悪意」に絡め取られていいる人間を息苦しいまでに執拗に描ききる。

主人公を取り巻くいくつかのエピソードや登場人物(究極の悪である木崎は当然ながら、過去の友人や恋人、売春婦とその子ども)が実に巧みに配置されていて、彼の感情や意識の揺れを見事に描き出していく。実に良く練られていると思う。

ただ、木崎のことが、巨大な悪としてかなり大袈裟に書かれているのに、あまり厚みを感じないのは少しどうかと思う点だ。わざとよくわからないものとして描いているのかもしれないが、抗いようのない圧力みたいなものがいまひとつ滲み出てこない気がした。

全体を流れる倦怠感のようなものが中村さんならではの空気というか温度というか湿度を保っていてまとわりついてくる。でもそれは暗くてじめりとしていながらも洗練されていて、優雅というかとても映像的である。それはスリリングな展開とともに読者を軽快に読み進めさせる推進力を備えている。

私は、絶望しているようでいて懸命に生きようともする主人公に、なぜかドキドキするのだ。

傑作だと思う。

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2012.04.05 | 中村文則 | トラックバック:(0) | コメント:(0) |

安部公房さんの「死に急ぐ鯨たち」です。
すでに絶版になってしまっているが、本書は、安部さんの著書としては数少ない文明批評であり、自身の作品の解説であって貴重だし、実に大変な名著である。

死に急ぐ鯨たち
安部さんは、分析癖が半端ではない。
安部さんは泳げない。コーチから泳ぐ動作を分析しすぎるせいだと批判されたというくらいで、本人も分析癖の過剰は否定できないと言っている。

解説の養老孟司氏は、「安部氏ほどまったく理科的な思考をする人は珍しい」と評している。各論考やインタビューを読んでも、実に分析的であり、確かに理科的な思考が徹底していて、論理が鮮やかである。

最初の論考『シャーマンは祖国を歌う』は、「ことば」を切り口にしたまさに文明批評である。
著書「第四間氷期」の話にはじまり、技術と人間、そして「ことば」の分析へと続く。そして、「国家信仰」を冷却させるための具体的提案として、立法、司法、行政に教育を加えて、四権分立を提案していることは大変興味深い。なお、ここで言う教育とは「DNAがことばという鏡の前に立って自己啓発するまでの、系統発生の歴史を教育基本法にすえた、新しい教育体系でなければ意味がない」としている。

表題の『死に急ぐ鯨たち』の論考は、短いものである。
鯨が突然狂ったように岸をめがけて泳ぎ出し、空気に溺れて死んでしまう集団自殺の謎を、「もともと肺で呼吸していた鯨が、溺死の恐怖におびえて海から逃れようとしているのかもしれない」というのだ。それは、核時代の人間の姿に照らしている。核兵器の力の均衡という奇妙な平和にたどり着いた人間だ。「人間だって鯨のような死に方をしないという保証はない」という。

そこで「国家だけにはなぜ暴力が許されるのか」と問う。「司法権が有効に力を発揮できるためには、犯人の武装解除が出来るだけの暴力の裏付けが必要」で、「もともと自分を超えるものを許容できないのが国家の体質である。人間の政治能力の限界に行き着いてしまったのだろうか」と。

音楽、美術、文学の芸術としての質の違いについて言及している。デジタルとアナログというキーワードから論じられているが、音楽や美術が最終的にアナログな表現をとるのに対して、小説は言語の世界であり、言語はデジタルな記号だという。アナログ的発想からデジタル表記し、またアナログ的処理をしてイメージを創るのが小説の小説たる所以だというのだ。

たばこに関する分析も面白い。たばこは、ニコチンやタールの薬物を吸っているのではない。「時間を吸っているのだ」とする。爪を咬む習慣に似ている。「喫煙の悪癖は生理的耽溺ではなく、言語領域での心理偽装にすぎない。一種の言語療法だろう」という。やはりここでも言語(ことば)に話が及ぶのだった。

この他、ドストエフスキー、ガルシア・マルケス、廃棄物にワープロ、時空の問題など様々な事象についてやはり分析的に、理科的思考で鮮やかに語っている。
さらに自らの作品について、多くを語ってくれていて、ファンとしては大変に興味深い。これほどまでにものごとを論理的に考え抜いて、小説を書いている作家がいるのだろうか。

養老孟司さんは巻末の解説の中で、安部さんが理科的であることと「不安」を描こうとする傾向があることを指摘して、「理科的な論理と不安という情念の結合が、安部氏の作品の基調音をなしているように思えてならない」と述べている。それが不思議な世界を作り出すというのだ。ああなるほどと得心がいく。

確かに、安部さんの作品には、主人公の「不安」駆り立てることで展開する物語が多い。その不安な気持ちを鋭く描写し、持ち前の分析癖で解釈するところできわめて高度な論理性を発揮することから安部作品の特別な世界が生まれるのではないかと感じる。

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2012.04.03 | 安部公房 | トラックバック:(0) | コメント:(2) |

三浦しをんさんの「舟を編む」です。

《あらすじ》
玄武書房に勤める馬締光也。営業部では変人として持て余されていたが、人とは違う視点で言葉を捉える馬締は、辞書編集部に迎えられる。新しい辞書『大渡海』を編む仲間として。定年間近のベテラン編集者、日本語研究に人生を捧げる老学者、徐々に辞書に愛情を持ち始めるチャラ男、そして出会った運命の女性。個性的な面々の中で、馬締は辞書の世界に没頭する。言葉という絆を得て、彼らの人生が優しく編み上げられていくー。しかし、問題が山積みの辞書編集部。果たして『大渡海』は完成するのかー。


辞書とは「言葉という大海原を航海するための舟」だと言う。

まずは、装幀だ。
夜の海のような濃い藍色のカバーに、「舟を編む」という文字は堂々たる書体で銀色に浮かび上がっている。飾りに、銀色で波と月、帆船が描かれ、表紙をめくると鮮やかなクリーム色の見返しが現れる。
辞書の装幀を意識されているんだろうけれど、なんとも品が良い。

これは、辞書編纂という地味で地道な仕事の物語。
新しい辞書『大渡海』を編み終わるまでの15年という長い長い歳月を、編集部の人事異動や年齢を重ねる登場人物の暮らしぶりを含めてしっかりと描ききっている。

なんといっても辞書編纂という仕事の特異性や難しさを伝える筆致は見事である。
辞書編集部の辞書への深い思い入れ、言葉へのこだわりと真摯な姿勢、ひたむきな情熱は、本当にすさまじいものだと実感させられた。

一例を挙げるとすれば、「用例採集カード」であろう。
用例採集カードとは、気になった言葉、聞き覚えのない言葉を即座に記録するためのもので、辞書編集部には膨大な数の用例採集カードが蓄積されている。
辞書を編むための大切な材料となる。辞書編集部の面々や老学者は、日常においても常に言葉に注意を払い、食事や会話の最中でも頻繁にカードに記入する。どんなときでもカードとえんぴつは手放さない。文字通り人生を通じたライフワークと化している。

登場人物一人ひとりの個性もくっきりと出ている。
登場人物一人ひとりがとても大切に、慈しむように描かれている。
だれもが、やさしく、あたたかく、それぞれの立場でそれぞれの情熱を持っていて気持ち良く感情移入できる。

とにかく面白いし、素晴らしく良い小説だが、それだけでなく、自分の仕事への姿勢を問い直されているようで、胸に痛く響くものがあった。

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2012.04.01 | 三浦しをん | トラックバック:(0) | コメント:(2) |

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