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ユクスキュル/クリサートによる「生物から見た世界」です。
エストニア生まれのユクスキュルにより、1934年にベルリンで出版された動物学の古典的名著である。

先日読了した「世界がわかる理系の名著」で紹介されていたなかで、もっとも興味を持ったのが、この本だった。

一般に私たちを取り巻く「環境」と言えば、客観的に私たちのまわりにあるすべての物、木や花や草や水や土や気温や天候や、あらゆるものが存在する世界を考える。

しかし、ユクスキュルは、動物を取り巻く時間や空間は、動物によってすべて違うというのである。あらゆる動物はみな独自の「環世界」を作りながら、その中に浸りながら、主体的に生きているというのだ。

多様な環境というものの中から、動物たちは自分にとって意味なるものを選び出し、それらで作り上げた環世界が、動物自身にとっても重要なのだという。

ユクスキュルはこう表現している。
「あらゆる動物は、それぞれのまわりに、閉じたシャボン玉みたいなものを持っていると想像していいだろう。主体の目に映るものすべてがそのなかに閉じこめられている」
「シャボン玉は主観的な知覚信号から作られている」

本書ではそれを、ダニやゾウリムシやカタツムリやハエやミミズや鳥や魚やモグラなど、さまざまな事象を取り上げて解いている。それぞれにおいて、主体的な環世界が作られており、それ以外のものは無いものとして扱われるが、そのように設計されているのだ。

さらに、人間に関しても言及している。大人と子どもでは環世界が違っている。視覚的なことで言えば、経験によって大人の環世界は広がっていったり、距離を認識したりしていくのである。
また、天文学者の環世界、原子物理学者の環世界、感覚生理学者の環世界がいかに違うのかといったことにも言及しているが、最後に「多様な環世界すべての背後に、永遠に認識されないままに隠されている、自然という主体がある」と本書を締めている。

地球温暖化や生物多様性など、政治的にも学問的にも環境問題が重要なテーマとして取り上げられている現在において、人間である私たちが捉える環境というものを考える上で、ユクスキュルの唱える「環世界」という考え方は、今なお新鮮であるだけでなく、きわめて重要であり、環世界の視点無しには、環境問題の本質的な議論はできないとさえ感じる。

私たちが「良い環境」と考えるとき、それはすべての動物やあるいはすべての人にとっての環境ではなく、私たち(主体)にとっての「良い環世界」を意味していることを理解しなければならない。
「私たち」とは如何なる主体を指すのかが常に問題であるのだ。

私たちは、誰もが自分だけの思い込みの世界に生きているのである。

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2012.07.01 | サイエンス | トラックバック:(1) | コメント:(2) |

サイモン・シンさん(青木薫訳)の「フェルマーの最終定理」です。
数学ノンフィクションをベストセラーにしたこと自体が貴重な作品だ。


《文庫裏表紙より》
17世紀、ひとりの数学者が謎に満ちた言葉を残した。「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」以後、あまりにも有名になったこの数学界最大の超難問「フェルマーの最終定理」への挑戦が始まったが―。天才数学者ワイルズの完全証明に至る波乱のドラマを軸に、3世紀に及ぶ数学者たちの苦闘を描く、感動の数学ノンフィクション。


まずもって、ピエール・ド・フェルマーってのはくせ者だ
「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」などと、思わせぶりで挑発的な謎かけを仕掛け、後の数学者たち(当時の数学者たちもだが)を手玉に取ってしまった。

それもフェルマーは、裁判所に勤める役人であり、アマチュア数学者であった。趣味で数学をやっていたのだが、いろんなエピソードからもその天才ぶりはよくわかる。
そして、「こういう命題(定理)を証明した」と著名な学者たちの手紙を送りつけたりするのだが、証明自体は書き残さない。書物の余白などにヒントめいたものをメモったりするだけだ。

で、フェルマーが提示した様々な定理を証明すべく、名だたる数学者たちが取り組んでいくのだ。そして、最後の最後に残った誰も証明できなかった定理が「フェルマーの最終定理」と呼ばれることになる。

フェルマーの最終定理とは、

 nが2より大きい自然数であれば
  Xのn乗+Yのn乗=Zのn乗
 を満たす、自然数X、Y、Zは存在しない


といういたってシンプルな定理であり、命題である。

これが、三世紀以上にわたって数学者たちの挑戦を退けてきた超難問だなんて、それだけでも数学というものの奥の深さというのか、不思議さというのか、世俗を超越した独自の世界観というのか、数学って(その中でも特に数論ってのは)なかなかに変だということが存分に感じられる。

本作は、1995年アンドリュー・ワイルズによってフェルマーの最終定理が証明されるまでの三百五十年の数学者たちの挑戦を、数学の歴史や社会背景、関係する数学者たちの人物像にまで光を当てて紐解いた数学ドラマである。

定理とそれを解くための理論など、数学に関する説明がたくさん出てきて、なかなかに手強い。読むのに疲れるし、時間もかかるのだが、でも読まされてしまう魅力が充満している。

特に、冒頭から「謎をかける人」フェルマーに関するところやピタゴラス教団などの話は大変に面白い。この時代ならではの社会背景が数学というものに与えた影響、数学が社会に与える影響などが、数学の神秘と絡んで興味深い。

中盤は、オイラーをはじめとする著名な数学者たちの挑戦が少しずつ積み上がっていく様が描かれていて、これだけ多くの学者が取り組んできたのだということは認識できるが、読み物としては少し退屈な部分かもしれない。

終盤にはいると、何人かの日本人が登場してきて、また面白くなってくる。
フェルマーの最終定理の証明において、「谷山=志村予想」は強大な威力を発揮するのだ。フェルマーの最終定理の真偽は「谷山=志村予想」が証明できるかどうかにかかっているという。
そのうちの谷山豊が自殺をしたという衝撃的な事実も重なり、この二人の日本人の登場が、本書のなかの際だった存在となる。

世界最大の難問フェルマーの最終定理を証明して見せたのはアンドリュー・ワイルズであり、彼に報道も名誉も集中したわけだが、それを支えていたのは何人かの日本人の功績であったのは感慨深い。

特に、フェルマーの最終定理が証明されたからといって、何かが変わるわけではない。
それよりも実は「谷山=志村予想」が証明されたことの方が、数学にとっても、実社会への貢献ということでも、意味が大きいのだということがしっかりと書かれていて、そのことが驚きであった。
著者のサイモン・シンは、よくこれだけのもの書いたものだと、ただただ感心させられた。

フェルマーの最終定理のようなシンプルな命題に魅了される数学者たちに、何か不思議な感覚を覚える。そして、そういう純粋な何かに没頭できる数学者なる立場が羨ましいような気がしてしまう。

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2012.06.17 | サイエンス | トラックバック:(1) | コメント:(6) |

京都大学教授、鎌田浩毅さんの「世界がわかる理系の名著」です。
世界を変えた十四冊の本を取り上げ、内容などをわかりやすく説いた解読本である。


これは、大変に面白かった。素晴らしく興味深い内容で、名前は知っていても実際はちゃんと内容を知らなかった科学者を、彼らの名著を見事なまでにわかりやすく解説してくれている。

科学の世界の面白さ、世の中を大きく変える理論を生み出したその苦労、希代の科学者の人物像が手に取るようによくわかる。この本自体が、名著だった。

取り扱うのは、「第1章 生命の世界」「第2章 環境と人間の世界」「第3章 物理の世界」「第4章 地球の世界」の4つの分野である。登場するのは、ダーウィン、ファーブル、メンデル、ガリレイ、ニュートン、アインシュタインといった科学に興味が無くても名前くらいは誰でも知っている超有名科学者、教科書に出てくる人たちがほとんどである。

構成がなかなか良い。それぞれに以下の項目で整理されている。例えばダーウィンの場合
 ◆書いた人はこんな人
 ◆こんなことが書いてある
 ◆その後、世界はどう変わったか
 ◆エピソード
 ◆ダーウィンの教訓
 ◆さわりピックアップ(原書の一部を紹介)
 ◆ダーウィン後(名著にいろんな意味で関連する最近の興味深い本の紹介)

名著の内容や背景、その後の影響、著者の人物像などがわかりやすくて素晴らしいのだが、さらに「○○○後」として紹介している最近の作品がまた秀逸である。これらも読みたくなってしまう。

面白かった内容をピックアップしようとするときりがない。みんな面白い。みんな凄いし、みんな興味深いし、みんなどこか可笑しくて、みんな尊い。

そんななかで、興味を引いたのは、ユクスキュル「生物から見た世界」である。1934年に出版された動物学の古典的名著である。

「動物を取り巻く時間や空間は、動物によってすべて違う」を言うのである。これを『環世界』と呼び、「人間を含む個々の動物にとってみれば、自身が作り上げた主観的な環世界の中でのみ生きている」とした。

「主体が意味を与えたもののみがそこに存在する」ということで、人間と犬とハエは、同じ場所を見ていてもまったく見えているものが違うという。これは個々の人間の場合、価値観の差異として現れる。誰もが自分だけの思い込みの世界で生きており、他人の思い込みはわからないということだ。これは、革命的な視点である。

そして現在ではこの環世界の考え方なしには、環境問題の本質的な議論はできないという。人間を取り巻く環境という概念自体が、人類の幻想によって成り立っている。人間は、人間にとっての環境しか考えられないのである。今後の人類存続と持続する社会を作り上げるためにも必須の視座なのである。

ユクスキュルは、あまりにも登場が早すぎ、当代の有力科学者たちにはまったく認められなかったらしい。正当の評価を受けるまでに何十年という期間を待たなければならなかった。

アインシュタイン「相対性理論」もさすがに面白い。

「相対性理論」の原題は「動いている物体の電気力学」だそうだ。アインシュタインは、物理学の基本から始めて、中学高校レベルの数学を使いながら相対性理論の本質をじっくりと説明していく。
相対性理論を一言で言ってしまうと、とにかく「世の中には光速以外に絶対のものはなく、すべては相対的という考え方」だけわかればよいとのことだ。

アインシュタインは、家族が移住し一人でミュンヘンに残されて寂しさのあまりノイローゼとなりギムナジュウムを中退したり、連邦工科大学を受験するも語学や歴史、生物の成績がふるわず不合格になったり(ただし数学と物理は最高点)、大学での欠席も多く担当教授と巧くやっていくことができずに大学に残って研究する道も絶たれたりと、あまりぱっとしない状況で、ベルリン特許局の技師として平凡にいわゆる閑職につくこととなる。

しかし、就職して二年後、「特殊相対性理論」「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」という物理学の重要な考え方を立て続けに一挙に公開する。「奇蹟の年」と呼ばれている。

アインシュタインは、学業の成績は劣等生だったと言われている。暗記が必要な科目はまったくできなかったそうだ。それは、アインシュタインが、自分に合わない科目はばっさりと切り、「つまらないことで頭を疲れさせない」という天才的な戦略をとったためと言われている。意識的に物理学のためだけに自分の大切な時間と頭を使ったのである。

「才能とは、生まれながらにして頭を疲れさせないシステムを搭載していることではないか」と著者は言う。

多くの天才科学者たちに共通するのは、新しいサイエンスを産み出すという本来の仕事の他に、社会の圧力に対抗しなければならない苦労をしていることだ。

ダーウィンの「種の起源」は、キリスト教思想を覆すような考え方に対して教会や学会のボス教授たちの激しい非難、攻撃にあった。これに対して友人の学者ハクスレーやヘッケルらが擁護し、論争をはる。

ファーブルは、十九世紀のフランスでは、大部分が昆虫は悪魔がつくったものと信じられ、フランス人は犬より小さな生き物は目に入らないという環境の中でほとんど知られることがなかったそうである。また、きわめて平易な文章で自然を伝えることに成功しているのだが、専門家からはそれが低い評価になったそうである。

メンデルの画期的な成果も、当時の研究者の誰にも注目されず、三十四年間も埋もれてしまうという運命にあった。それは、メンデルがアカデミアの学者でなかったためと言われており、生物学に数学的解析を持ち込んだメンデルの画期的な点が、当時の生物学者の理解をはるかに超えていたことが原因である。
生前なんの評価も受けなかったメンデルの研究成果は、後になって三人の科学者がまったく別の場所で証明していくことになる。

ガリレイは、地動説を支持した内容が聖書を厳格に信じる教会の反発を買い、宗教裁判にかけられる。そして宗教界とつるんでいた学閥アリストテレス学派から目の敵にされるのである。

ウェゲナーは、「大陸は移動する」ことを発見し、超大陸「パンゲア」という考え方を唱えたが、当時のボス科学者たちにはまったく理解できなかったらしい。彼のアイデアは、あまりにも新しすぎ、科学者コミュニティで孤立していく。そして、この画期的なアイデアは五十年もの間地球科学の世界から姿を消してしまうことになる。
当代で得られる事実だけでは、仮説を十分に実証することができず、このアイデアは、新しい技術(米軍が開発した音波発生装置など)によって実証されていく。

革命的な科学者は、たいていの場合、異端児であり、理解されないことが多い。そこには、良き理解者、友人たちが彼らを支えていたり、少し後の時代に実証していく科学者たちがいたりして、一人では成し遂げられなかったサイエンスフィールドの改革が進んでいくのだということがよくわかる。

そして、科学者には、仮説を立てる能力とともに実験・実証を遂行する忍耐強さが必要なのだが、自分が発見した事実をぜひとも伝達したいという強い情熱と、虐げられたり、認められなかったりする不遇の環境の中でも研究を続け、書に残していく姿勢がこれらの名著を生んでいることに感激するのである。

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2012.06.09 | サイエンス | トラックバック:(1) | コメント:(2) |

マーカス・ウォールセンの「バイオパンク」です。
サブタイトルは「DIY科学者たちのDNAハック!」となっている。


「バイオパンク」とはバイオテクノロジーとパンクミュージックの合成語だろう。
パンクとは、体制化・様式化した従来のロックに反発して社会運動化した音楽ムーブメントのように、DIY科学者(バイオ・ハッカー)たちが、既得権に囲われた生物科学の高い壁を自力で押しのけようとする様を表しているのだと思われ、本書はそんなをDIY科学者たちを取材した生命科学の最前線のルポルタージュである。

バイオテクノロジーは、今、遺伝子組み替え食品や細菌などによるバイオテロのイメージなどとも関連して、政・官・産によって研究者や研究成果が囲い込まれてしまっている。そこには高い壁がある。しかし、本書に登場するバイオ・ハッカーたちは、これに異を唱える。
自然界に存在する情報なのに、それを特許とか知的財産権で囲い込みするのはおかしいというのだ。ニュートンは「万有引力の法則」を、アインシュタインは「特殊相対性理論」に特許を申請したか、と問うのだ。

登場するDIY科学者たちに共通している特長がある。ひとつは、研究成果を独占せずに公開してしまうことだ。そして、特許を申請せず、金儲けも眼中にない。彼等は、純粋に知りたい、自分で解明したい、社会の問題を自分の手で解決したいという情熱と探求心から研究しているのである。

バイオ・ハッカーたちは、DNAに関する情報や研究成果がオープンソースとなり、安い機材で多くの仲間がこの世界に参入することができれば、イノベーションが起こるはずだという。より多くの集合知をはたらかせる環境こそが生物科学にイノベーションを引き起こすと考えているのだ。
大学や大手企業の研究室が研究を独占するのでは、生物科学の飛躍的発展が望めないし、そんなことは間違っていると思っている。

近年では、情報科学が世界を動かしてきたが、これから世界を大きく変える可能性のある領域は、生命科学だろう。そこに情報科学の経験が交わってくる。

2003年にヒトゲノム・プロジェクトにより解読された生命の設計書であるDNAコードは、コンピュータのプログラミングに使うコードにあまりにもよく似ていた。DIY科学者たちは、コンピューターでプログラミングするように、DNAコードも操作できるのではとの発想から、自分たちを「バイオハッカー」と呼び、自宅のガレージやキッチンでその研究に動きはじめている。

ビル・ゲイツがガレージで立ち上げた会社が今日のマイクロソフトになり、サーゲイ・ブリンとラリー・ぺイジは友人のガレージでグーグルを発明し、マーク・ザッカーバーグは学生寮の部屋でfacebookを開設した。
バイオハッカーたちもガレージやキッチンのような身近な場所を利用して、DNAデータを使った生命言語の操作をはじめている。

ウェブの草創期に、おもしろさだけで動くハッカーたちが新しい情報の世界を開拓し、それが世界を変えた。今、生物科学の世界で、それが再び起きようとしているというのだ。

ただ、ウェブに比べて、生物科学の領域ならではの難しい問題が存在する。
バイオテロの懸念や見えない人工微生物の侵略などへの恐怖である。

本書では、今、生物科学の分野で何が起きようとしてるのか、その中で独自の信念の下に活動するバイオハッカーたちの考え方や現状を紹介し、そしてそれにかかわる懸念や不安、未来への展望などを様々な立場の意見を交えて書かれていて大変興味深い。

近い将来、私たちは自分の全ゲノムのスキャン情報をスマートフォンに入れて持ち歩けるようになるかもしれない。自分で自分のゲノム情報を管理する時代となり、遺伝子工学は日常生活の一部になる。
世の中の問題はバイオテクノロジーを使って驚くような方法で解決され、新しいエネルギー源としても身近に使いこなす時代が来るのかもしれない。

ただ、今のところバイオハッカーたちは、大躍進と呼べるような成果は出していないし、そう簡単に成果は生まれないのだろう。しかし、彼らはとにかく楽しそうに、自分で科学をしようと決めて、すべて自分でやる。その姿と情熱には、心震わせられるし、うらやましいと感じてしまう。

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2012.05.03 | サイエンス | トラックバック:(1) | コメント:(0) |

ジュディ・ダットンさんのノンフィクション作品「理系の子」です。


高校生科学オリンピック「インテル国際学生科学フェア(ISEF)」に出場した理系少年少女たちの記録である。
サイエンス系のノンフィクションでこれほどまでに感動させられるとは正直思わなかった。様々な環境の中で、幼い心を奮い立たせ、熱中して研究に打ち込む少年少女たちの姿と、それを支え続ける周囲の大人たちの有り様が胸を打った。

「サイエンス・フェア」は、アメリカで盛んなイベントで、中高生が科学の自由研究を競うコンテストだ。州ごとはもちろん、もっと小さなコミュニティでも開かれており、その最高峰がサイエンス・フェアのスーパーボールと呼ばれる「インテル国際学生科学フェア」である。世界50カ国から1500人、提携された認定サイエンス・フェアを勝ち抜いた中高生たちが集まってきて6日間をかけて成果を競い合う巨大イベントなのである。
日本では、讀賣新聞社主催の「日本学生科学賞」と朝日新聞社主催の「高校生科学技術チャレンジ(JSEC)]の二つが認定されている。

その規模の大きさといい、内容の凄さといい、驚くべきものである。賞金総額は四百万ドル以上(3億円以上)、研究によっては政府機関や企業から引き合いがあり、出場者の五人に一人は特許を出願する。なかには総売上千二百万ドルにのぼる会社を興した少年もいる。

著者ダットサンは、ISEF2009に出場した6人に取材し、過去にサイエンス・フェアで伝説的な少年少女の話を加えてまとめた。それぞれの子どもの性格や家庭の事情まで、実に丹念にインタビューしており、訳者の力もあると思うが文章も平易で、中高生でも読むことができる良書となっている。

ざっと、紹介されている少年少女たちを見出し的に概観しただけでも十分に驚かされる。

◎十歳で爆薬を製造し、父に頼んでガイガーカウンターをもらい、師や協力者を得て、14歳で「核融合炉」を製作してしまった少年テイラー。ここでは、高校を中途退学するずば抜けた才能を持つ子どもを受け入れて独自の教育を行うデイヴィットソン・アカデミーの存在が大きく、テイラーの成功に貢献している。

◎ナヴァホ族保護特別保留地の貧しい家庭で喘息で苦しむ妹のために、廃品のラジエーターやゴムチューブ、炭酸飲料の缶などから新しいタイプの太陽エネルギー回収装置を作りあげた少年ギャレット。ナヴァホ族、ネイティヴ・アメリカンとしての誇りを持って取り組んだギャレットの功績は、ナヴァホ族の子どもたちを刺激し、後に続く者たちがでてきている。

◎全米で150人しかいないハンセン病に感染してしまってもへこたれずに、相棒となる友だち(共同研究者)を得て、自らの「らい菌」が治療によってどのように減るのか、そしてハンセン病を徹底研究して差別意識の一掃に挑んだ少女BB。

◎少年院では、暴動などが起こる環境の中で、凶器となり得る鉛筆やはさみさえ所持を制限されながら、惑星と衛星の生命の痕跡を調べあげた少年がいる。サイエンス・フェアにも拘束具を付けて移動するような特殊な環境なのである。ここでは非行少年たちの眠れる才能を発掘しようと奮闘する教師の姿が素晴らしい。

◎2歳の時にサンタに延長コードを頼んだという電気オタクのライアンは、バーガーキングにいた耳の不自由な女の子が手話のできる大人に付き添われないと何もできない状況を見て、彼女を助けたいと思い、宙にアルファベットを描くとテキストに変換されて液晶ディスプレイに表示される手袋を発明した。彼には、毎週研究の相談相手となってくれていた老物理学者ジョン・マコーネルとの出会いがあった。逆にライアンとの出会いが、子どもたちに科学の面白さを伝える「ジョン・マコーネル数学/科学センター」につながっていく。

◎自閉症の従姉妹との交流を通じて、彼女のために画期的な教育プログラムを生み出した少女ケイラ。彼女の教育プログラムは、特許を申請し、カナダとアメリカの多くの特別支援学級で実践することとなった。彼女は、自閉症児の特異性こそ一番素敵なところだという。

読後にまず思ったのは、アメリカの科学教育とその環境の充実ぶりだ。
2009年にオバマ大統領は、毎年サイエンス・フェアを開催する旨を発表し、「次の十年間で理科と数学の成績を世界の平均レベルからトップレベルに引き上げる」努力をすると述べた。「若い人たちに科学がかっこいいものだとわかってもらいたい」と発言している。

本書の最後に、最も大切なことが書いてある。
成功するために子どもたちに必要なのは、やりたいことをやる。それだけなのだ

子どもたちがやりたいことをやる。そのために、例えば本書に出てくる様々な学校では、こうした才能溢れる(ある意味で特殊と扱われる)中高生たちを受け入れるその多様性というか柔軟性というようなものを有している場合が多いし、学校設備の充実ぶりも目に付いた。

また、周囲の大人たちも重要な役割を果たしている。
まず、なんといっても親が邪魔をしない。子ども扱いをしない。子どもたちがやりたいことをやるために、積極的にサポートする親もいれば、そっと見守る親もいる。可能な限り彼らに環境を提供しようとする。そして、才能を伸ばしてやるための様々な大人との出会いが彼らの大いなる成功を育んでいるのだ。
より多くの子どもたちが、こうした環境に恵まれて欲しいものである。

本書は、子どもを持つ親や教育者などの大人だけでなく、子どもたちにも読んで欲しい。
科学はこんなにもかっこいいものだ

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2012.04.09 | サイエンス | トラックバック:(1) | コメント:(0) |

花里孝幸さんの「生態系は誰のため?」です。


生態系」に対する正しい理解というものがいかに難しいものなのか、様々な善意で行われている環境保全活動や環境教育がいかに人間の好みに左右されているか、「生態系レベルで自然環境を見る目を持つこと」の大切さと困難さを知るには良い本だった。

本書は、著者の研究分野である「湖」に住むプランクトンの生態系を中心に論じられている。湖の生態系は、森林や草地などに比べて、流入河川や流出河川がはっきりしているので、どのような物質がどれだけ湖に入り、出て行くのかを測定することが比較的容易である。生態系をひとつのシステムとして、その中で物質の循環やエネルギーの流れを研究する「生態系生態学」は、湖の研究がリードしているのだそうだ。

確かに、生態系を正確に捉えて分析することが、きわめて困難なことは容易に想像できる。ある範囲の森林は、隣接する草地や集落などとつながっているわけで、隔絶されているわけではなく、棲んでいる生物も必ずしも森林の中だけで暮らしているわけではない。また、森林では生物がとても不均一に分布しているはずだ。生態系というものをどう把握するのか、その研究がとても難しいことは私にもよく理解できる。

いくつか興味深い話が出てくる。
ひとつは「外来種の問題」だ。よく取り上げられるものにブラックバスがある。ブラックバスは、魚を食べる魚(魚食魚)であり、そのような食性の魚は日本の湖沼には少なく、生態系の中でその位置が空いていたのだろうというのだ。多くの外来種にとって、新たに入り込んだ生態系の中に自分の居場所を築くのは簡単ではないそうで、人々の目に映り、問題視された外来種は、国内に入った外来種のごく一部に過ぎない希な例なのだ。

一方で、全国の河川で「アユの放流」などが漁業関係者や環境保全イベントとしてよく行われている。しかし、多くのアユは琵琶湖産で、川のアユとは餌にするものが違う(※湖のアユはミジンコ、川のアユは付着藻類などを餌とする)など、生態系を攪乱する。そういう意味ではブラックバスと同じだと言う。

しかし、ブラックバスの放流は秘密裏に行われたのに対し、アユは漁業権を得た漁業者によって、公然と(多くの人に認められて)行われたという大きな違いがある。
もう一つの違いは、ブラックバスが魚を食べるのに対して、アユはミジンコや水生昆虫、付着藻類などを餌とする。人間は、ミジンコを食べる魚が増えて、付着藻類を食べる魚が減ってもあまり気にしないのだ。こうしたあまり目に見えない生物を軽視しているが、食物連鎖を通して、人間が重視している魚の命を支えていることを理解する必要があるという。

湖の水質浄化の話も興味深かった。
よく行われている水質浄化対策には矛盾がつきまとうというのだ。水質を汚濁させているのは大量に増えた植物プランクトンで、それを餌とするミジンコを増やし、ミジンコを食べれば魚が増える。水質汚濁問題が生じるような富栄養湖では、魚が多く棲んでいるのだそうだ。ここで水質を浄化すると魚が減るのである。「あちら立てればこちらが立たず」が常にあるのだ。

湖の富栄養化は、必ずしも悪いことではない。しかし湖底にたまったヘドロによって生じる環境が人間に嫌われるのだ。植物が生き残り、分布を拡大するには、人間に気に入られるというのがひとつの重要な要素になっている。

富栄養化したところでは、生物多様性が高いという。環境の不均一性が多様性を生む。陸上では熱帯雨林、海域では珊瑚礁。
人間にもこれは当てはまる。人間は化石燃料を見つけたことで爆発的に人口が増加し、生活形態や考え方などの多様性を生んだと著者は言う。化石燃料というエネルギーを大量に使って、人間独特の富栄養化を実現したのだが、これによって人間は生物界で圧倒的に特殊な存在になったのではないかと思う。

環境問題は、人間の感覚とか好みとかに左右される要素が多い。しかし、人間は生物界の中の一生物種として、異質な種である。滅菌処理された水だけを飲んでいる現代人は、他の動物と大きく異なる生物になってしまっている。このきわめて例外的な生物が、自分たちの生活環境を基準に、他の生き物の環境を考えていることが問題だと指摘している。

人間は化石燃料を使って、富栄養化していると言ったが、人間の活動を通して、結果として化石燃料に依存している野生生物が多いことに驚いた。
人間は化石燃料を使うことによって、人間社会のみならず、野生生物群集を、ひいては地球上の生態系全体を変えていると言われると、エネルギー問題を抱える今、いろいろ考えさせられる。

本書を読んで思う。
みんなが生態系の仕組みを学び、自分たちの暮らしとの関係を客観的に考えることができるようにすることがとても大切だ。だが、実際には大変に難しいのだろうなと痛感もした。

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2012.04.08 | サイエンス | トラックバック:(0) | コメント:(0) |

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