上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

--.--.-- | スポンサー広告 | トラックバック:(-) | コメント:(-) |

池田清彦さんの「やがて消えゆく我が身なら」です。
尊敬する池田清彦さんが、「本の旅人」に連載していたエッセイをまとめたもの。

《文庫本裏表紙より》
「ぐずぐず生きる」「80歳を過ぎたら手術は受けない」「仕事が嫌いなら、心を込めずに働く」「がか検診は受けない」…。人はいつか必ず死ぬ。崩壊寸前の日本の社会システムのなかで、どうしたら有限の命を面白く生きられるだろうか。そもそも面白いとはどういうことか。飾らない人生観と独自のマイノリティー視点で、現代社会の矛盾を鋭く突く!生きにくい世の中を少しでも快活に過ごす、本音炸裂エッセイ。


『人は死ぬ』からはじまっている。
「人間は脳が巨大となり、自我などというものが機能しだして死の恐怖を感じるようになった」と言い、「我々の人生が面白いのはいつか死ぬことを我々自身が知っているからに他ならない」とする。
確かに有限の命であればこそ、今日がどれほどに楽しかったかは意味を持つのだろう。

このエッセイは、有限の命をどうしたら面白く生きられるのかを、池田先生の卓越した理論というのか、あれやこれやをすっかり超越した思考に、奥深い知見を交えて綴った心地よくて痛快な読み物だ。

ご自分で書かれているが、池田先生の文章や主張は、身も蓋もない。これは良い意味で言っている。正しい姿勢というかそういうものだ。

「身も蓋もない」とは、「表現が露骨すぎてふくみも情緒もない」ということだそうで、ある主題について理屈を詰めていけば、ふくみや情緒がなくなるのは当然だという。
変な情緒を排除して、スパッと理屈を吐き出せば、身も蓋もない切れのいい文章に、物言いになるのであろう。だから池田先生の言葉は実に歯切れが良く、小気味いいのだ。

「自分たちの情緒のみが正しいという思い込みが、この世界のすべての不幸の源泉である」との考え方が、芯のところに通っている。

しかしまあ、これだけ過激にものを言いながら、少しも嫌味に感じないのは、そこにある洞察の鋭さとユーモア、そして端々に人柄の良さが滲み出いているからだろう。

たくさんたくさん、ニンマリしちゃうほどに切れ味のいい言葉が、池田理論が並んでいる。
取り上げ出すときりがないのでここではやめておく。

池田先生の思想の基本的なところは、「未来の人も含めて、他人の自由を侵害しない限り基本的に何をしてもよい」との考え方だ。

こういう考え方をベースにおいているからだろうか、池田先生の文章を読んでいると、なんだか肩の力が抜けていく。
あなたは、あなたのまま、無理をしなくていいんだよと言われているような気がしてくるのだ。

それだけでなく、池田先生の文章を読んでいるだけで、物事を考えるときに、素直な自分の目で見て思考する癖みたいなものが少しずつだけど身に付いていくような気がしてくるから不思議だ。読後はなんだか少し、自分のマイノリティの視点で世の中を見ることができるかもしれないという妄想に浸っているのである。
これも心地よい。

 にほんブログ村 本ブログへ
スポンサーサイト

2012.06.23 | 池田清彦 | トラックバック:(1) | コメント:(0) |

中沢新一さんの「アースダイバー」です。
縄文地図を片手に東京を歩いて読み解かれたとてもユニークな東京論である。

「アースダイバー」という言葉がまずもって魅力的である。

一神教の神様は、頭の中に描いた計画を実行に移すというスマートなやり方で世界を創った。ところが、アメリカの先住民の戦士やサムライの先祖を生んできた環太平洋圏を生きてきた人間たちは、世界の創造をそんなふうには考えてこなかった。例えば、アメリカ先住民の「アースダイバー」神話では、カイツブリが水中深くダイビングしてつかんできた一握りの泥を材料にして、粘土をこねるように体を使ってぶかっこうに世界を創造したのだという。そこからはスマートではないけれど、とても心優しい世界が創られてくる。

日本列島に生きてきた人間たちは「無意識」を泥のようにしてこね上げるやりかたで、自分たちの世界を創ってきた。なんだか得体の知れないところをもっている、私たちの社会は、まぎれもないアースダイバー型の特徴を持っているというのだ。
中沢さんは、自分もカイツブリになって、水中に潜って、底の方から一握りの泥をつかみ、それを材料にして、もう一度人間の心を泥からこね直す。そんな気持ちで東京を見回してみることを「アースダイバー式」と呼んでいる。

「アースダイバー式」の心構えで東京を散策する中沢さんは、縄文時代の地形と現在の東京を重ね合わせた地図を自前でつくり、それを持って歩く。

縄文時代には氷河期が終了して温暖化が進み、氷河が溶けて海面が上昇した時期にあたる。そのため、日本列島は大陸から切り離され、現在の東京付近は山の手の台地の奥深くまで海が入り込んでいたそうだ。

この地図をみると、縄文時代の人たちは、たいてい洪積層と沖積層のはざま、岬のような地形に強い霊性を感じていて、墓地や神様を祀る聖地を設けていた。そして現代では、そこに神社、寺などが位置していることを発見する。

前半は、こんな地図を片手に東京を歩いて、新宿の定礎の物語とか、寺や神社の縁起とか、盛り場の成り立ちとか、電波塔の持つ意味なんかが、実に興味深く読み解かれている。
それらは、どこまで真実なのかはわからないのだけれど、読者としてはその論理展開に引き込まれるものがある。

後半には、神話や宗教の博識をふんだんに盛り込みながら、想像力を爆発させて、エッセイとしても大変に面白い展開をなしていく。

浅草の観音様とストリップの関係とか、秋葉原は「アキバハラ」と読むのが本当で炎の精霊と電子、オタクの関連性とか、「お酉さま」における鷲神社の熊手から鷲がなぜ消えたかとか、東京のへそ「立石様」や相撲が自然の怪力の化身として乗り移ったものであるなど、実に楽しく、知的で、遊び心も満載の面白さである。

そして最後には、都心部の森に囲まれた皇居で締めくくられている。ここでも「森番の天皇」として論じられている中沢さんの夢想は、天皇制のあり方への独自の思いが込められていて興味深い。

東京のことをあまり知らない私は、十分にこの本を味わえない。それは読んでいてなんとも悔しい気がしてしまう。
それでも、アースダイバー式の街へのアプローチの斬新さと、そこから見えてくるものへの切れのいい解釈は、あまりにも魅力的であり、刺激的であった。
土地勘のある地域で試してみたいものである。

 にほんブログ村 本ブログへ

2012.05.06 | 中沢新一 | トラックバック:(1) | コメント:(0) |

精神科医で立教大学現代心理学部映像身体学科教授である香山リカさんの「弱い自分を好きになる本」です。

前向きな思考、競争や成長、強い意志などを求める本が多いなかで、「弱くても何の問題もない、その弱さこそあなたの魅力だ」と呼びかける本書は、この本自体が著者の言う「人を安心させる優しい魅力」に包まれている。

気が小さくて落ち込みやすく、日頃から自分のことをとても「弱いなぁ」と自己嫌悪に陥ってしまっている私には、当てはまることが多いので読んでみた。

必ずしも著者の分析に私自身がぴたりとはまったわけではなかったので、納得がいってスッキリしたとか、自信がついたとまでは言えないのだけれど、一人ひとりの持つ弱さや悩みに寄り添い、それでいいよと言い続ける著者の姿勢は基本的に好きなのだ。

「あなたが悩んでいる心の弱さが、他人を思いやれる本当の優しさでもある」と、「あなたのその性格が人を安心させているのだ」と著者は語りかける。

そして、いろんな場面 (職場や学校、親子関係のストレスなど) に即した工夫や考え方などのアドバイスが、とても優しくてあったかな言葉で綴られている。

さて、弱い自分を好きになれるのか。
それは、人それぞれだろうし、私自身はこれを読んだら、弱い自分がだんだん好きになってきたというわけではない。

だけど、こういう考え方をしている人がいる。それも識者と言われ、多くの人の共感を得ている人の言葉だから、影響力がある。
こうした考え方が受け入れられて、少しでも、じわじわとでも広がっていけばいい。社会の根底のところで、そっと根を下ろしていってほしい。
そのためにも「こういう考え方っていいよね!」という声が、あちこちでつぶやかれると嬉しいのだ。

弱い自分を素直に出せる心優しい場や関係があちこちに生まれ、弱い自分を受け入れてくれるあたたかな環境が、寛容で大らかな社会が育まれていくことを期待したい。

 にほんブログ村 本ブログへ

2012.04.26 | 香山リカ | トラックバック:(0) | コメント:(0) |

外山滋比古さんの「思考の整理学」です。
これは、1983年に書かれた本であり、近年の驚くほどの売れ行きをみても、たいへんに長生きな書籍である。


学校は、先生と教科書に引っ張られて勉強する「グライダー人間」をつくるが、自己飛翔能力を持つ「飛行機人間」はつくらない。そんなこっちゃ、学校はダメだねとちょっと控えめに言っているのだろう。
そしてみんなは、飛行機能力を高めていけるような方向に思考能力を鍛えようね、という『創造的な思考の整理』を提案するエッセイである。

思考は「朝飯前」が良いよ、とか、アイデアは「寝かせて発酵」させよう、とか、頭をよく働かせるには「忘れる」ことが大切、でも価値観をしっかりしてないと大切なことを忘れるよ、とか、とにかく悩んでないで書いてみて推敲しようね、とか...創造的に考えるための頷けるノウハウがいろいろ語られている。
著者と対話するつもりで、行きつ戻りつしながら読んでいると、ちょっとした頭の体操にもなる。

もうずいぶんと古い本なので既に世に浸透している理論も多い。
そういう意味では、まあ当たり前かなと思う事柄もたくさん出てくる。それほど感動的に目からウロコのノウハウが目白押しというわけではない。
それでも、その内容は、いまだに普遍性を有していること自体が本書の素晴らしいところなのだろう。

これは、ハウツウ本ではなくて、あくまでもエッセイなのだと感じさせる。エッセイとしての言葉の美しさ、軽やかな自由さが読み物としても魅力的な、外山さんの個人的な観点から「創造的な思考の整理」を論じた散文なのである。

 にほんブログ村 本ブログへ

2012.04.07 | 外山滋比古 | トラックバック:(1) | コメント:(0) |

和辻哲郎さんの「風土」です。

梅棹忠夫「文明の生態史論」と並び称される比較文化論の名著である。いつか読まなくちゃと思いながらもずっと積んだままになっていた本なのだが、やっと読んだ。


風土」とは、なんだろう。

哲学者・和辻さんは、冒頭で「風土と呼ぶのはある土地の気候、気象、地質、地味、地形、景観などの総称である」と規定しながらも、副題に「人間学的考察」としているように、「風土」は単なる自然現象や土地の状態をいうのではなく、その民族、人間の精神構造のうちに刻まれて具現しているもの、文芸、美術、宗教、風習などあらゆる人間生活の表現のうちに見いだされる人間の「自己了解」の仕方であると規定し直している。
そこから「風土の型が人間の自己了解の型である」というところに到達する。
さらに、「もとより風土は歴史的風土であるがゆえに風土の類型は同時に歴史の類型である」とも言っている。

そこで、風土を『湿気』の違い(湿潤と乾燥)において「モンスーン」と「砂漠」、「牧場」の3つの類型に分類し、日本をモンスーン型ではあるが、夏の「台風」と冬の「大雪」が並存する(それはとりもなおさず四季に富んでいることを指すのだが)特殊性に着目して、風土の側から見た日本人論を展開している。

そして日本人の国民的性格を台風的性格(季節的・突発的)なところから「しめやかな激情、戦闘的な恬淡」と呼び、一方で、空間的、間柄的にみて日本には明らかに『家』があるとし、家と隔てられた公共なるものを「よそのもの」とみることが様々な営みに影響していると指摘した。

この『湿気(四季の変化)』と『家』に基づいて日本の珍しさ、国民性などを読み取っており、大変興味深い。

なお、解説にもあったが、本書は発刊後間もなく、唯物論の立場から戸坂潤氏が痛烈な批判を試みて以後、様々な角度から批判も受けているそうだ。
先日読んだ『梅棹忠夫語る』(日本経済新聞社/梅棹さんの実質的な最後の書籍(語り))でも、和辻さんの『風土』のことに触れていて、「『風土』はまちがいだらけの本だと思う。‥‥‥どうして『風土』などを言っておきながら、ヨーロッパの農場に雑草がないなどと、そんなバカなことを言うのか。どうしてそんな間違いが起こるのか。‥‥「自分の目で見とらんから」です。‥‥‥あれは思い込みや。」と。

和辻さんがもっぱら天才的な芸術的直感を発揮するのに対して、梅棹さんは、徹底してフィールドワークにこだわる人だったらしいのでこのような発言があるのだろうか。どちらも“天才的”という言葉が相応しい知の巨人のお二人であるが、梅棹さんの「文明の生態史観」と比較して読んでみるのも面白い。

 にほんブログ村 本ブログへ

2012.03.29 | 和辻哲郎 | トラックバック:(0) | コメント:(0) |

池田清彦さん、マツコ・デラックスさんの対談「マツ☆キヨ」です。
とてもお気に入りで尊敬するお二人の対談。


お二人ともマイノリティを自称し、帯にも「異端のふたり」と書かれているが、実にまっとうな正論を気持ち良く吐かれる。

第1章で震災のこと、第2章で情報化社会のことを取り上げて、日本の近代化がもたらした自給自足できないシステムの問題やコミュニケーションの本質などについて語っているが、第3章の『誰がマイナーで、誰がメジャー?』が特におもしろい。

テレビ番組のことから話がはじまる。
「いろんな見方があって、それをめぐってすったもんだしているというのが人間社会の本来のあり方としても正しい」と。そういう井戸端的なディベートができる番組が真っ当だとか‥、無責任システムが横行していて、例えば新聞記事は基本的に全部、署名記事にすべきだとか‥、なんとなく全会一致になっちゃう日本人の同調志向の問題とか、それは他人に合わせるだけで、自分の頭でちゃんと考えていないからだとか、体勢に乗っているときには、間違っても責任を取らなくていいからだとか、だから、体勢とは違う自分の考えを出すためには、なんとなく斜めに構えていないといけないよねとか、で、「ヘンな人」にならない限りにはむしろ言いたい意見が言いづらい風土なんだよねとか。

で、池田さん曰く、マツコさんは、「マイノリティが社会の中で生きるひとつのモデルを与えたという点で存在は大きい」と。
さらに。マイノリティのあり方として「自分たちはマイナーだけど、特別だし、正しい」というかまえからは、生産的な話は出てこないという。

池田先生もマツコさんも、言いたいことを言っているようで、押しつけがましくなくてすがすがしいくもあり、見方によってはなかなかにシャイである。
マツコさんの言葉を借りれば、だいたい「みなさん、ありがとう。そして、ごめんなさい。」という思いを常に持っていて、「しょせんはそんなもんよ、アタシなんて」と自覚し、「いますべきことを淡々とやっていこうって。結局、人間はおごっちゃダメなのよね。ほんとに。」で対談を締めている。

読んでいて、実に気持ちが和らぐというか癒されるというか救われる。この心地よさは、体勢に流されながら「何か変だ」と感じているところを的確かつ過激に突いてくれることとともにその裏にあるマイノリティの自覚と、相手への、人への心ある配慮によるのだろう。

 にほんブログ村 本ブログへ

2012.03.24 | 池田清彦 | トラックバック:(0) | コメント:(0) |

養老孟司さんの「ぼちぼち結論」です。

雑誌「中央公論」に連載した「鎌倉傘張り日記」の2005年11月以降の分に、いくつかの文章を新しく付け加えた養老先生の時評シリーズ完結編。


《文庫本裏表紙より》
「理性」に振り回される現代世界を憂い、社会「常識」の怪しさを指摘し、虫捕りの時間がないことをぼやく…。
養老孟司の時評シリーズもついに完結篇。ホリエモン・村上ファンド騒動、NHK受信料、データ捏造問題、中国の経済脅威、自民党総裁選、団塊世代の定年…。さらに、幸せについて、文明についても考察。さあ、結論が見えてきた。


一文一文が妙に論理的で、言い切り調なのが特徴の軽快なぼやきのエッセイである。

いろんな話が出てくる。かなり言いたい放題である。たぶんだが面倒くさくなったのかもしれない。そんな横着な感じがするのだが、そこが面白い。

現代世界の問題はアメリカ文明。そういってしまえば、結論は簡単だ。
アメリカ文明はエネルギー依存、石油依存文明である。アメリカ人は自分の都合のいいように考えるに決まっている。アメリカはどう考えるのかを推測し、大人の付き合いをしようと言う。

古代文明はすべてエネルギーを木材に頼った。だから四大文明の故地は、森林を再生不能になるまで切ったため、現在ではすべて荒れ地だという。石油についても採掘できなくなるまで掘るに違いない。人間は利口になるというものではないとおっしゃっている。

ヒトの脳は、五感から情報を取り入れ(感覚)、内部で計算し(考える)、行動(運動)として出力する。
教育とはこの三つを訓練することだが、日本もエネルギー依存だから、教育は「感覚を育てる」ことを無視し、運動せずに平坦なところを歩き車に乗り、脳の入出力は単調化してしまっているから考えられるわけがない。ちゃんと体を使えよと。

エネルギーはいずれ払底する。ならば将来は人を訓練するしかないよとおっしゃっている。

こんなところが、私が読み取った養老先生のつぶやきの結論かな。

 にほんブログ村 本ブログへ

2012.03.22 | 養老孟司 | トラックバック:(0) | コメント:(0) |

内田樹さんの「街場のメディア論」です。

「アメリカ論」「中国論」「教育論」に続く街場シリーズの第4弾。街場シリーズは、大学での講義の内容や学生とのディスカッションを起こして加筆修正したものだそうだ。

第一講 キャリアは他人のためのもの
第二講 マスメディアの嘘と演技
第三講 メディアと「クレイマー」
第四講 「正義」の暴走
第五講 メディアと「変えないほうがよいもの」
第六講 読者はどこにいるのか
第七講 贈与経済と読書
第八講 わけのわからない未来へ


内田樹さんはいいね。切れ味抜群。今回はメディアの衰退を分析する。
既存のメディアを独自の視線でばっさり切っちゃう。

第一講「キャリアは他人のためのもの」のキャリア教育の考え方はなるほど納得がいった。
「適性と天職」を考えてみても意味がなく、「仕事が出来るかどうかは、仕事についてみないとわからない」のだ。
私たちの能力が最も効率的に開発されるのは、その能力が必要とされた時であり、「能力は他者から求められたときに選択的に開花するのだ」という考え方には強く賛同する。

第二講から第五講は、メディアを切れ味鋭くぶった切る。
メディアの価値について。「メディアの威信を最終的に担保するのは、発信する情報の知的な価値」だとする。さらにメディアの有用性を考量する重要な指標は、「危機耐性」と「手作り可能性」なのだと。
そういう意味で、テレビ局の多くが新聞社との系列関係にある身内のメディアであることの問題点とともに、ビッグビジネスであるテレビとコストの安いラジオとの差を指摘している。

真に個人的な言葉には制御がある。現在のメディアの問題は、「最終的な責任を引き受ける生身の個人がいない」ことにある。だから暴走する。世論とは「誰もその言責を引き受けない言葉」だと言う。
だからこそ、「自分が言わないと、たぶん誰も言わないこと」を選んで語る方が良いよとおっしゃっている。意に止めて発言しようと思う。

まさに、メディアの不調はそのままわれわれの知性の不調であるのだ。

第六講「読者はどこにいるのか」は、まったくもって私と考え方が共通していて嬉しい。
書棚に関する(いや読書人に対するか)理路というか、思いというか、考え方は、『本を買って置き場に悩むのが趣味』の私の思いとぴったり符合して心地よかった。
そうだ、本は書棚に並べるために買うのだよ。選書と配架におのれの知的アイデンティティがかかっているのだ。
このことについては、持論を絡めて別途語りたい。

これから新聞やテレビという既成のメディアは、深刻な危機に遭遇するだろう。いや既に遭遇している真っ最中だろうか。出版もその様態を大きく変えつつある。
内田さんは言う。「この危機的状況を生き延びるのは、今遭遇している前代未聞の事態を『自分宛ての贈り物』だと思いなして、好奇心を持って迎え入れることのできる人だ」と。
肝に銘じて、自分なりにメディアと対峙し使っていきたい。

 にほんブログ村 本ブログへ

2012.03.21 | 内田樹 | トラックバック:(0) | コメント:(0) |

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。