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高田宏さんの「木のことば、森のことば」です。
木に、森に、自然に対する畏敬の念が込められた心に染みいるエッセイ

《新書裏表紙より》
息をのむような美しさと、怪異ともいうべき荒々しさをあわせ持つ森の世界。耳をすますと、木や生き物が発する生命の息吹が聞こえてくる。さあ、静かなドラマに満ちた自然の中へ。

美しい。

書名の通り、木のことば、森のことばを聴いて綴られているような、美しいエッセイである。
決して装飾的な美しさではない、自らの考えを、思想を、いたってストレートに、選び抜かれた言葉で語っていて、胸の中に浸透するように伝わってくる。

本書は、八ヶ岳山麓のふもとに山荘を建てて暮らし、全国の森を歩き、木を見てきた著者が、一本の木、森、森の暮らし、森の再生などについて書いている。

読み進むに連れて、なんとも美しい世界に引き込まれていく感覚である。静穏な空間、深遠な世界、自然の神秘、そういったものに包まれていくような読書というのもなかなかに気持ちがよいものだ。

木や草には、生存競争というものはない。それは「生存運」と呼ぶべきもので、運の良い木が大木へと育っていくのであり、森は多くのドラマに満ち満ちているが、それは生存運の静かなドラマであるという。

著者は、森に分け入って、木の音を、声を聴く。
木の吸い上げる水の音、細枝の先の水玉の放つ光の矢、巨木のしっとりとした美しい樹皮、森に集まってくる鳥の鳴く声、虫の飛ぶ音、リスなどの動物の歩く音、そういったいろいろな多様なものが集まってくる環境が森の魅力であり、それを見事なまでに表現してしまう著者の力量は圧巻とさえ言える。

一貫して木への、森への畏敬の念を伝えているが、内容は多彩だ。

見学者のためにまわりの木々を刈られてしまった屋久島の縄文杉の将来を案じ、一種類の針葉樹にしてしまった人工林を憂い、別子銅山跡の再生された山々や足尾銅山の取り組みに期待し、ソローの「森の生活」と鴨長明の「方丈記」の共通点に言及し、無名の詩人の「森の生活者」について語り、島崎藤村が書いた木のことばを取り上げ、最後にインドの詩人ダゴールの言葉を拾い出して、本書を終えている。

本書が与えてくれた静かな時間に感謝したい。

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2012.07.20 | 高田宏 | トラックバック:(0) | コメント:(2) |

竹内薫さんの「夜の物理学」です。
日の当たらない物理学の理論を紹介したサイエンスライター竹内薫さんの科学エッセイである。

著者によれば、ナイトサイエンスには3つの意味があり、

①「論理的な思考なんかじゃなくて、直感(思いつき?)や霊感めいたものに閃きを得て、そこから出発していくようなこと」
②名の通り「夜の科学」で、天体望遠鏡で覗く夜空の秘密を扱う
③空想、虚構、小説‥‥‥夢とロマンあふれる妖しい顔のこと

だそうである。

扱われているのは、例えば、
 「アインシュタインの宇宙定数」
 「エヴァレットの多世界と赤ちゃん宇宙」
 「エリスの宇宙動物園説」
 「ホーキングの虚数宇宙」
 「ビレンキンの量子宇宙論」
 「ホイルの定常宇宙説」
 「超ひも理論」

などなどで、現段階で、定説、準定説と言われるものから異端説と言われるもの、捨てられてほとんど相手にされていないものまでいろいろな理論とそれを唱えた物理学者を、独特の砕けたやさしい言葉で解説している。

定説も異端説も紹介されているが、物理学の世界では、異端説が将来、一発逆転で定説になることもままあることなのだそうだ。

あくまでもエッセイだし、出てくる理論はまあ、「これ、もしかして本人しかわかってないだろ」「人をおちょくっているのか」と思えるような、なんでもありの物理学の世界の話なので、「難しいので一応一所懸命説明してみますけど、わかんなくても気にしないでね」「こんな感じだとに思っておいてね」てな風に語っていて、わかりやすいし、読み物としてもたいへんに面白い。

最後の方は、物理学者の恋愛事情とか、とっても性格の悪いロシアの天才ランダウさんの話とか、波瀾万丈の人生を送ったボームさんとか、ノーベル賞を受賞してから超常現象とか心とか生物とかに物理学をあわてはようとぶっ飛んだ研究ばかり始めてしまったジョセフソンさんとか、いろいろな物理学者たちの人間像を紹介していて、これもまた興味深い。

著者は、物理学が近年「コト化」していると言う。
昔のように理論があって実験で確かめるという「モノ」の世界を通り過ぎて、ホーキングの宇宙の始まりが虚数時間だという「虚時間宇宙」や素粒子は目に見えないヒモの振動状態だとする「超ひも理論」のように「本当」なのか「作り話」なのか、見当もつかない純粋理論の世界へと片足を突っ込みつつあると言うのだ。

不確定でどこにあるのかわからない「量子」が登場して以来、「モノ」というよりは「コト」の世界に向かっているのだ。

物理学の理論が、正しいかどうか誰にもわからない。誰にもわからないところがミソなのだそうだ。でも、それでいいのか?

そして、少なからず天才的な業績を残した物理学者たちが、現代宇宙論から、超自然的な世界へ足を踏み入れていく。われわれが「神」と呼んできた世界へと、宇宙の起源とか、生命の神秘とか、何か偉大な存在とか、そんなものへと、それこそナイトサイエンスへと向かっていく。

そんな物理学を日々研究している人たちを想像するに、なんか幸せな人たちだなあと思うのは私だけだろうか。

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2012.07.16 | 竹内薫 | トラックバック:(0) | コメント:(1) |

大河内直彦さんの「『地球のからくり』に挑む」です。
理系の読み物だが、工学や物理学のみならず、文化人類学や文学までをも紐解き、さまざまな知識が交錯していて知的刺激に富んでいる。

まず、「地球の定員」という興味を引かれるタイトルで第1章がはじまる。
私たち人類は、ひどいエネルギー中毒に罹っているとする。
私たちが一日に口にする食物はおよそ一万キロジュール(2400キロカロリー)だが、その30倍の30万キロジュールをゆうに超えるエネルギーを毎日消費しているのだ。

動物の生きるエネルギーの根源は、植物の光合成、すなわち太陽エネルギーに行き着く。植物が固定した太陽エネルギーは1年で300京キロジュール。そのうちの10%の30京キロジュール分の植物を草食動物が食べ、肉食動物はさらに10%の3京キロジュール分の草食動物を食べる。
太陽エネルギーの総量が決まっている限り、こうして地球上に暮らすことのできる生き物の「定員」は決まってくる。

膨大な種類の生き物が地球上にいる中で、人間という一種だけでそのうち2京キロジュールのエネルギー量を食べており、明らかに私たちは生態系のバランスを崩していると言える。

一万年ほど前、人類は、自然とのつながりだけに頼った太陽エネルギーの利用法から手を切り、人類だけが自然界のルールに縛られずに抜け駆けできる「からくり」を生み出した。それが「農耕」である。

農耕によって人類は地球環境に悪影響を与えるほどに大幅に個体数を増やしたのである。そしてそれを支えたのは「窒素肥料」であり、もし「ハーバー・ボッシュ法」の発明がなければ、窒素肥料を作ることができず、現在の世界人口は30億人ほど少なかったと考えられるのだといい、この発明が与えた影響の大きさがずいぶんと強調されている。

この他、石油、石炭、天然ガスといった化石燃料を中心に、理系・文系の知識を総動員して、化石燃料と文明との関係、その歴史と成り立ち、さまざまな背景や地球システムにおけるかかわりなどを解説しており、たいへんに興味深い。

石油の起源である太古の赤潮現象について。
世界中の海底に大量のヘドロが溜まった「海洋無酸素事変」は、一億年前、ヘドロが百万年もの間、海底に降り積もったもの(現在の黒色頁岩)で、このヘドロを作りだしたのは赤潮の原因「シアノバクテリア」である。この一部のヘドロが現在までの一億年の間に地熱で熟成され、石油への変質したのだという。

太古の昔にシアノバクテリアが数百年にわたって大繁殖し、一億年に渡って貯め続けた太陽エネルギーの恩恵にあずかって現代人は暮らしているのだ。そのバクテリアを形づくる炭素は、地球の内部に閉じこめられていた宇宙のかけらなのだそうだ。

地球には、いくつかのからくりがあるという。

例えば、植物の光合成を起点とする炭素サイクルは、二酸化炭素と有機物の間を行ったり来たりして、差し引きすると何も消費しないようになっている。それは、目に見えない微生物が、光合成によって生み出される有機物と酸素を分解し続け、二酸化炭素と水に戻していくからで、見事にバランスを保っている。

また、炭素サイクルは一年で一回転するのであるが、一回転につき0.4%が脱落して炭素は徐々に枯渇していくのだそうである。しかし、サイクルから抜け落ちていった炭素を補充するからくりがある。それは火山活動であり、火山から噴出するガスに二酸化炭素が含まれていて、大気中へと放出される量が、炭素サイクルから抜け落ちる二酸化炭素量とぴったりと一致するのだそうだ。実に巧くできている。

そこに、人類の叡智に基づくイタズラが入ってくる。

炭素サイクルには2つある。一年に一回転する「生物サイクル」と、数億年に一回転する「地球サイクル」が共存しているのだ。この二つのサイクルが地球のからくり(火山活動など)によって見事にバランスしている。

化石燃料は、すべて地球サイクル側に含まれる物質であり、人類はそれらを無理矢理に生物サイクルに引っ張り込んでいるのだという。おかげで生物サイクルを巡る炭素の総量が年々増加し、その結果として大気中の二酸化炭素が増え、酸素が減っているのだという。

人類は化石エネルギーを得るために、自然の営みの一部を速回ししているというイメージだ。地球の何億年にもわたる自然の営みを攪乱しているのである。

ちなみに、人類が化石燃料を燃やしてエネルギーを得ることで、大気中の酸素濃度が毎年0.0003%減少しているのだそうだ。このまま減少すると一万五千年後には人類は絶滅するという。

最後に大河内直彦さんは言っている。

「二十世紀以降、化石エネルギーは人類の活動における主力エンジンにまで成長した。それどころか、いつの間にか主客が逆転して、人類の行動までをもコントロールするようになってしまった。‥‥‥禁断の果実を口にした人類の欲望は、もはや後戻りができないところに来てしまった。」と。

そして「エネルギーに支えられた豊かな暮らしは、皮肉なことに、現代社会を成り立たせているからくりや、リスクを忘れがちにさせてしまうようだ。‥‥‥それどころか、人間の精神構造まで幼稚にしてしまう作用もあるのではないか。」と警鐘を鳴らしている。

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2012.07.09 | 大河内直彦 | トラックバック:(0) | コメント:(2) |

ユクスキュル/クリサートによる「生物から見た世界」です。
エストニア生まれのユクスキュルにより、1934年にベルリンで出版された動物学の古典的名著である。

先日読了した「世界がわかる理系の名著」で紹介されていたなかで、もっとも興味を持ったのが、この本だった。

一般に私たちを取り巻く「環境」と言えば、客観的に私たちのまわりにあるすべての物、木や花や草や水や土や気温や天候や、あらゆるものが存在する世界を考える。

しかし、ユクスキュルは、動物を取り巻く時間や空間は、動物によってすべて違うというのである。あらゆる動物はみな独自の「環世界」を作りながら、その中に浸りながら、主体的に生きているというのだ。

多様な環境というものの中から、動物たちは自分にとって意味なるものを選び出し、それらで作り上げた環世界が、動物自身にとっても重要なのだという。

ユクスキュルはこう表現している。
「あらゆる動物は、それぞれのまわりに、閉じたシャボン玉みたいなものを持っていると想像していいだろう。主体の目に映るものすべてがそのなかに閉じこめられている」
「シャボン玉は主観的な知覚信号から作られている」

本書ではそれを、ダニやゾウリムシやカタツムリやハエやミミズや鳥や魚やモグラなど、さまざまな事象を取り上げて解いている。それぞれにおいて、主体的な環世界が作られており、それ以外のものは無いものとして扱われるが、そのように設計されているのだ。

さらに、人間に関しても言及している。大人と子どもでは環世界が違っている。視覚的なことで言えば、経験によって大人の環世界は広がっていったり、距離を認識したりしていくのである。
また、天文学者の環世界、原子物理学者の環世界、感覚生理学者の環世界がいかに違うのかといったことにも言及しているが、最後に「多様な環世界すべての背後に、永遠に認識されないままに隠されている、自然という主体がある」と本書を締めている。

地球温暖化や生物多様性など、政治的にも学問的にも環境問題が重要なテーマとして取り上げられている現在において、人間である私たちが捉える環境というものを考える上で、ユクスキュルの唱える「環世界」という考え方は、今なお新鮮であるだけでなく、きわめて重要であり、環世界の視点無しには、環境問題の本質的な議論はできないとさえ感じる。

私たちが「良い環境」と考えるとき、それはすべての動物やあるいはすべての人にとっての環境ではなく、私たち(主体)にとっての「良い環世界」を意味していることを理解しなければならない。
「私たち」とは如何なる主体を指すのかが常に問題であるのだ。

私たちは、誰もが自分だけの思い込みの世界に生きているのである。

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2012.07.01 | サイエンス | トラックバック:(1) | コメント:(2) |

サイモン・シンさん(青木薫訳)の「フェルマーの最終定理」です。
数学ノンフィクションをベストセラーにしたこと自体が貴重な作品だ。


《文庫裏表紙より》
17世紀、ひとりの数学者が謎に満ちた言葉を残した。「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」以後、あまりにも有名になったこの数学界最大の超難問「フェルマーの最終定理」への挑戦が始まったが―。天才数学者ワイルズの完全証明に至る波乱のドラマを軸に、3世紀に及ぶ数学者たちの苦闘を描く、感動の数学ノンフィクション。


まずもって、ピエール・ド・フェルマーってのはくせ者だ
「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」などと、思わせぶりで挑発的な謎かけを仕掛け、後の数学者たち(当時の数学者たちもだが)を手玉に取ってしまった。

それもフェルマーは、裁判所に勤める役人であり、アマチュア数学者であった。趣味で数学をやっていたのだが、いろんなエピソードからもその天才ぶりはよくわかる。
そして、「こういう命題(定理)を証明した」と著名な学者たちの手紙を送りつけたりするのだが、証明自体は書き残さない。書物の余白などにヒントめいたものをメモったりするだけだ。

で、フェルマーが提示した様々な定理を証明すべく、名だたる数学者たちが取り組んでいくのだ。そして、最後の最後に残った誰も証明できなかった定理が「フェルマーの最終定理」と呼ばれることになる。

フェルマーの最終定理とは、

 nが2より大きい自然数であれば
  Xのn乗+Yのn乗=Zのn乗
 を満たす、自然数X、Y、Zは存在しない


といういたってシンプルな定理であり、命題である。

これが、三世紀以上にわたって数学者たちの挑戦を退けてきた超難問だなんて、それだけでも数学というものの奥の深さというのか、不思議さというのか、世俗を超越した独自の世界観というのか、数学って(その中でも特に数論ってのは)なかなかに変だということが存分に感じられる。

本作は、1995年アンドリュー・ワイルズによってフェルマーの最終定理が証明されるまでの三百五十年の数学者たちの挑戦を、数学の歴史や社会背景、関係する数学者たちの人物像にまで光を当てて紐解いた数学ドラマである。

定理とそれを解くための理論など、数学に関する説明がたくさん出てきて、なかなかに手強い。読むのに疲れるし、時間もかかるのだが、でも読まされてしまう魅力が充満している。

特に、冒頭から「謎をかける人」フェルマーに関するところやピタゴラス教団などの話は大変に面白い。この時代ならではの社会背景が数学というものに与えた影響、数学が社会に与える影響などが、数学の神秘と絡んで興味深い。

中盤は、オイラーをはじめとする著名な数学者たちの挑戦が少しずつ積み上がっていく様が描かれていて、これだけ多くの学者が取り組んできたのだということは認識できるが、読み物としては少し退屈な部分かもしれない。

終盤にはいると、何人かの日本人が登場してきて、また面白くなってくる。
フェルマーの最終定理の証明において、「谷山=志村予想」は強大な威力を発揮するのだ。フェルマーの最終定理の真偽は「谷山=志村予想」が証明できるかどうかにかかっているという。
そのうちの谷山豊が自殺をしたという衝撃的な事実も重なり、この二人の日本人の登場が、本書のなかの際だった存在となる。

世界最大の難問フェルマーの最終定理を証明して見せたのはアンドリュー・ワイルズであり、彼に報道も名誉も集中したわけだが、それを支えていたのは何人かの日本人の功績であったのは感慨深い。

特に、フェルマーの最終定理が証明されたからといって、何かが変わるわけではない。
それよりも実は「谷山=志村予想」が証明されたことの方が、数学にとっても、実社会への貢献ということでも、意味が大きいのだということがしっかりと書かれていて、そのことが驚きであった。
著者のサイモン・シンは、よくこれだけのもの書いたものだと、ただただ感心させられた。

フェルマーの最終定理のようなシンプルな命題に魅了される数学者たちに、何か不思議な感覚を覚える。そして、そういう純粋な何かに没頭できる数学者なる立場が羨ましいような気がしてしまう。

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2012.06.17 | サイエンス | トラックバック:(1) | コメント:(6) |

バカリズムさんの「都道府県の持ちかた」です。
本屋で文庫版が出てたのを見つけて、あらためて読みたくなった。

《amazon内容紹介より》
2010年5月のオリコン主催「もっとも面白いと思うピン芸人」で1位に輝くなど、確固たる地位を築いている芸人バカリズム。
その究極のネタ「地理バカ先生」が、ついに書籍化!
都道府県を持つとしたら、どう持つ?……
そんな奇想天外なネタを全47都道府県、網羅!
各都道府県のマニアックな情報も満載し、
まさに「新しい地図帳」としても楽しめる一冊です。


バカリズム好きなんだよね。
お笑い芸人の中ではピカイチにお気に入り。

なんかどことなく気恥ずかしそうなところがいいね。
たぶん照れ屋なんだろうなぁと思ったり。
ひな壇にいても微妙に乗りきれてないところが愛おしい。

でも発想は抜群。
ipponグランプリなんて観てるとその切れ具合に惚れ惚れする。
これは、そのバカリズムの叡智が垣間見られる本だ。
都道府県をどう持つか考えようという発想自体が素晴らしいというか常軌を逸している。

47都道府県の地理とか特長と持ち方、扱い方が書いてある。
クイズなんかもあって楽しめる。
いやぁバカみたいだけど、とっても知的。
楽しい!とりあえず見てクスクスっと、ニヤニヤっと笑おう。

わが三重県はと見ると、結構かっこいい持ち方。いいね。ネタバレするので言えないけど。
京都府はなんかちょっとイヤですね。そんなことされるの?ネタバレするので言えないけど。
長崎県は確かに気を遣うよね。ネタバレするので言えないけど。
高知県はなんとも不憫な扱いだな。ネタバレするので言えないけどね。

結局ほとんど書評でも内容紹介でもないのだが、
存分に楽しんだことが伝わればそれで嬉しいのだ。

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2012.06.16 | バカリズム | トラックバック:(0) | コメント:(6) |

京都大学教授、鎌田浩毅さんの「世界がわかる理系の名著」です。
世界を変えた十四冊の本を取り上げ、内容などをわかりやすく説いた解読本である。


これは、大変に面白かった。素晴らしく興味深い内容で、名前は知っていても実際はちゃんと内容を知らなかった科学者を、彼らの名著を見事なまでにわかりやすく解説してくれている。

科学の世界の面白さ、世の中を大きく変える理論を生み出したその苦労、希代の科学者の人物像が手に取るようによくわかる。この本自体が、名著だった。

取り扱うのは、「第1章 生命の世界」「第2章 環境と人間の世界」「第3章 物理の世界」「第4章 地球の世界」の4つの分野である。登場するのは、ダーウィン、ファーブル、メンデル、ガリレイ、ニュートン、アインシュタインといった科学に興味が無くても名前くらいは誰でも知っている超有名科学者、教科書に出てくる人たちがほとんどである。

構成がなかなか良い。それぞれに以下の項目で整理されている。例えばダーウィンの場合
 ◆書いた人はこんな人
 ◆こんなことが書いてある
 ◆その後、世界はどう変わったか
 ◆エピソード
 ◆ダーウィンの教訓
 ◆さわりピックアップ(原書の一部を紹介)
 ◆ダーウィン後(名著にいろんな意味で関連する最近の興味深い本の紹介)

名著の内容や背景、その後の影響、著者の人物像などがわかりやすくて素晴らしいのだが、さらに「○○○後」として紹介している最近の作品がまた秀逸である。これらも読みたくなってしまう。

面白かった内容をピックアップしようとするときりがない。みんな面白い。みんな凄いし、みんな興味深いし、みんなどこか可笑しくて、みんな尊い。

そんななかで、興味を引いたのは、ユクスキュル「生物から見た世界」である。1934年に出版された動物学の古典的名著である。

「動物を取り巻く時間や空間は、動物によってすべて違う」を言うのである。これを『環世界』と呼び、「人間を含む個々の動物にとってみれば、自身が作り上げた主観的な環世界の中でのみ生きている」とした。

「主体が意味を与えたもののみがそこに存在する」ということで、人間と犬とハエは、同じ場所を見ていてもまったく見えているものが違うという。これは個々の人間の場合、価値観の差異として現れる。誰もが自分だけの思い込みの世界で生きており、他人の思い込みはわからないということだ。これは、革命的な視点である。

そして現在ではこの環世界の考え方なしには、環境問題の本質的な議論はできないという。人間を取り巻く環境という概念自体が、人類の幻想によって成り立っている。人間は、人間にとっての環境しか考えられないのである。今後の人類存続と持続する社会を作り上げるためにも必須の視座なのである。

ユクスキュルは、あまりにも登場が早すぎ、当代の有力科学者たちにはまったく認められなかったらしい。正当の評価を受けるまでに何十年という期間を待たなければならなかった。

アインシュタイン「相対性理論」もさすがに面白い。

「相対性理論」の原題は「動いている物体の電気力学」だそうだ。アインシュタインは、物理学の基本から始めて、中学高校レベルの数学を使いながら相対性理論の本質をじっくりと説明していく。
相対性理論を一言で言ってしまうと、とにかく「世の中には光速以外に絶対のものはなく、すべては相対的という考え方」だけわかればよいとのことだ。

アインシュタインは、家族が移住し一人でミュンヘンに残されて寂しさのあまりノイローゼとなりギムナジュウムを中退したり、連邦工科大学を受験するも語学や歴史、生物の成績がふるわず不合格になったり(ただし数学と物理は最高点)、大学での欠席も多く担当教授と巧くやっていくことができずに大学に残って研究する道も絶たれたりと、あまりぱっとしない状況で、ベルリン特許局の技師として平凡にいわゆる閑職につくこととなる。

しかし、就職して二年後、「特殊相対性理論」「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」という物理学の重要な考え方を立て続けに一挙に公開する。「奇蹟の年」と呼ばれている。

アインシュタインは、学業の成績は劣等生だったと言われている。暗記が必要な科目はまったくできなかったそうだ。それは、アインシュタインが、自分に合わない科目はばっさりと切り、「つまらないことで頭を疲れさせない」という天才的な戦略をとったためと言われている。意識的に物理学のためだけに自分の大切な時間と頭を使ったのである。

「才能とは、生まれながらにして頭を疲れさせないシステムを搭載していることではないか」と著者は言う。

多くの天才科学者たちに共通するのは、新しいサイエンスを産み出すという本来の仕事の他に、社会の圧力に対抗しなければならない苦労をしていることだ。

ダーウィンの「種の起源」は、キリスト教思想を覆すような考え方に対して教会や学会のボス教授たちの激しい非難、攻撃にあった。これに対して友人の学者ハクスレーやヘッケルらが擁護し、論争をはる。

ファーブルは、十九世紀のフランスでは、大部分が昆虫は悪魔がつくったものと信じられ、フランス人は犬より小さな生き物は目に入らないという環境の中でほとんど知られることがなかったそうである。また、きわめて平易な文章で自然を伝えることに成功しているのだが、専門家からはそれが低い評価になったそうである。

メンデルの画期的な成果も、当時の研究者の誰にも注目されず、三十四年間も埋もれてしまうという運命にあった。それは、メンデルがアカデミアの学者でなかったためと言われており、生物学に数学的解析を持ち込んだメンデルの画期的な点が、当時の生物学者の理解をはるかに超えていたことが原因である。
生前なんの評価も受けなかったメンデルの研究成果は、後になって三人の科学者がまったく別の場所で証明していくことになる。

ガリレイは、地動説を支持した内容が聖書を厳格に信じる教会の反発を買い、宗教裁判にかけられる。そして宗教界とつるんでいた学閥アリストテレス学派から目の敵にされるのである。

ウェゲナーは、「大陸は移動する」ことを発見し、超大陸「パンゲア」という考え方を唱えたが、当時のボス科学者たちにはまったく理解できなかったらしい。彼のアイデアは、あまりにも新しすぎ、科学者コミュニティで孤立していく。そして、この画期的なアイデアは五十年もの間地球科学の世界から姿を消してしまうことになる。
当代で得られる事実だけでは、仮説を十分に実証することができず、このアイデアは、新しい技術(米軍が開発した音波発生装置など)によって実証されていく。

革命的な科学者は、たいていの場合、異端児であり、理解されないことが多い。そこには、良き理解者、友人たちが彼らを支えていたり、少し後の時代に実証していく科学者たちがいたりして、一人では成し遂げられなかったサイエンスフィールドの改革が進んでいくのだということがよくわかる。

そして、科学者には、仮説を立てる能力とともに実験・実証を遂行する忍耐強さが必要なのだが、自分が発見した事実をぜひとも伝達したいという強い情熱と、虐げられたり、認められなかったりする不遇の環境の中でも研究を続け、書に残していく姿勢がこれらの名著を生んでいることに感激するのである。

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2012.06.09 | サイエンス | トラックバック:(1) | コメント:(2) |

滝川薫、村上敦、池田憲昭、田代かおる、近江まどかさんによる「欧州のエネルギー自立地域 100%再生可能へ!」です。

本書は、脱原発を決めたドイツ、イタリア、スイス、原発を持たないオーストリア、デンマークにおいて、農村から大都市まで、原発や化石燃料に依存しない再生可能エネルギーによる自立をめざす実践の様子を、欧州に暮らす5人のジャーナリストが取材し、レポートしたものである。

各国のエネルギー政策やその背景なども整理されているが、特に五か国から15か所の村や町、州を選び、再生可能エネルギーの導入に至った経緯や現状などを報告している。

先進地域として紹介されているところは人口数千人の小さな村が多い。農村地帯では、交通も含んだエネルギー消費を100%再生可能エネルギーで生産することは、地域の資源や環境条件として短中期的に実現可能であるとともに、住民の意思統一が比較的容易であり、地域のイニシアティブが働きやすいからであろう。

一方、人口密度が高い都市部では、その難易度が上がる。そのため、都市と周辺地域が集まった広域連携地域で取り組もうという例が増えてきているそうであり、本書では、人口135万人を抱えるミュンヘンのような大都市や州の取組も紹介されている。

再生可能エネルギーの導入に取り組む地域の最大のモチベーションは、これまで化石燃料(電気代、暖房代、ガソリン代など)を購入して地域から流出していたお金を域内で循環させることで、地域経済を活性化することだ。
そして、その担い手は、市民であり、地域の事業者である。
あくまでも地域戦略として、社会全体で取り組んでいるケースを「エネルギー自立地域」と呼んでいる。

欧州では、ここ15年ほどの間、エネルギーの主権を再び地域に取り戻す動きが急速に展開しており、地域分散型のエネルギー供給システムへの回帰が進んでいる。
それは、農家の経営を支えるエネルギービジネスを提供するとともに、地域の人々が共同出資するなど多くの人に利益が分配される仕組みを伴っていく。それによって、地域コミュニティの強化にもつながっている。
そして、地域分散型エネルギー生産は、自ずと雇用も分散させ、施工業者、プランナー、コンサルタント、市民投資コーディネート会社、地域資本の小さなエネルギー会社、エコツアーの業者など、地域の中に新しい職を生み出している。

ドイツ、オーストリア、スイスでは、国や州が地域のエネルギー自立をサポートする様々なプログラムを進行中である。分散型再生可能エネルギーの時代には、地域住民の賛同と参加が欠かせない。そこで、自治体や郡は調整役を務める重要な存在である。

再生可能エネルギーを推進するインセンティブには、各種の政策、法的な枠組みが必要である。固定価格買取制度(FIT)やCO2税(環境税)、助成金、設備の建設許可の簡易化などである。固定価格買取制度は、日本でもようやく制度が確立し、2012年夏から運用がはじまろうとしている。

なかでも都市計画制度などとの調整が日本でも重要に思える。
例えば都市計画マスタープラン(土地利用計画)の中に、風況とともに自然や景観、住民への影響を考慮した風力発電の設置可能な場所の記載すること/農地との調整の中でメガソーラー等の設置場所に関する記載/太陽光発電と歴史的建造物の保全規制との調整/生態系や景観、漁業権・水利権との調整を可能とする小水力発電に利用可能な区域を定義した水系地図の作成などである。

これから地域のエネルギー自立に取り組むにあたっては、その道しるべとしての「エネルギーコンセプト」づくりが、まず重要になる。自治体がエネルギー自立政策を実現していく上で基盤となる構想、行動計画である。

内容は、「現状の分析(エネルギー消費の現状とポテンシャル調査)」→「政策目標(目標設定とシナリオ)」→「戦略(対策リスト、実施体制と評価方法の作成)」などを定める。
また、これらを支える情報としてエネルギーのビジュアル化(GIS等)が望まれる。

これらは、地域の様々なステークホルダーが集まって共同で未来図を描き、地域のコンセンサスを得ていくプロセスが大切である。

そして、非常に重要なのは、市民の参加や小さな投資を広げていくための様々な手法を地域にあった形でデザインしていくことだ。再生可能エネルギーの市民投資をコーディネートしていく必要がある。

小規模分散型の再生可能エネルギーは、小さな投資家を好む。小さな市民投資家が安心してエネルギー生産事業に参加できることがきわめて重要なのである。

本書は、エネルギー生産が分散することにより、経済活動も富も分散し、地域が豊かになると言う。再生可能エネルギーが地域社会の再生や発展にとって重要な「道具」として大きな意味を持ちはじめていると訴える。
一極集中の産業構造から分散型の構造への移行であり、社会構造の大きな変化を必要とする。その長いプロセスを踏み出そうと唱えている。

今、日本でも、再生可能エネルギーへの転換の動きが加速しつつある。しかし、メガソーラーをはじめ、再生可能エネルギー事業を推進しようとしている事業体の大半が大企業ではないだろうか。
しかし、本書で紹介されている欧州の事例では、大企業は登場していない。あくまでも、地域の住民と自治体、地域企業が主役である。本書は、日本の進むべき方向を示唆しているように思うのだが、果たして日本において、住民自らが立ちあがり事業を主体的に立ち上げていくような機運が起こってくるのだろうか。

日本においても、今、福島原発の事故をきっかけとして高い問題意識が芽生えてきていると思うが、そうした意識を具体的な事業への参加に向かわせる啓蒙とか、地域の意思形成とか、教育とか、安心して参加できる枠組みづくりとかいった取り組みや事業を推進し、コーディネートしていくことが必要なのではないかと思う。その役割は、自治体だけではなく、地域にそうした専門機関を育てていくことが必要なのではないだろうか。

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2012.06.06 | 地域づくり | トラックバック:(1) | コメント:(5) |

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