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高田宏さんの「木のことば、森のことば」です。
木に、森に、自然に対する畏敬の念が込められた心に染みいるエッセイ

《新書裏表紙より》
息をのむような美しさと、怪異ともいうべき荒々しさをあわせ持つ森の世界。耳をすますと、木や生き物が発する生命の息吹が聞こえてくる。さあ、静かなドラマに満ちた自然の中へ。

美しい。

書名の通り、木のことば、森のことばを聴いて綴られているような、美しいエッセイである。
決して装飾的な美しさではない、自らの考えを、思想を、いたってストレートに、選び抜かれた言葉で語っていて、胸の中に浸透するように伝わってくる。

本書は、八ヶ岳山麓のふもとに山荘を建てて暮らし、全国の森を歩き、木を見てきた著者が、一本の木、森、森の暮らし、森の再生などについて書いている。

読み進むに連れて、なんとも美しい世界に引き込まれていく感覚である。静穏な空間、深遠な世界、自然の神秘、そういったものに包まれていくような読書というのもなかなかに気持ちがよいものだ。

木や草には、生存競争というものはない。それは「生存運」と呼ぶべきもので、運の良い木が大木へと育っていくのであり、森は多くのドラマに満ち満ちているが、それは生存運の静かなドラマであるという。

著者は、森に分け入って、木の音を、声を聴く。
木の吸い上げる水の音、細枝の先の水玉の放つ光の矢、巨木のしっとりとした美しい樹皮、森に集まってくる鳥の鳴く声、虫の飛ぶ音、リスなどの動物の歩く音、そういったいろいろな多様なものが集まってくる環境が森の魅力であり、それを見事なまでに表現してしまう著者の力量は圧巻とさえ言える。

一貫して木への、森への畏敬の念を伝えているが、内容は多彩だ。

見学者のためにまわりの木々を刈られてしまった屋久島の縄文杉の将来を案じ、一種類の針葉樹にしてしまった人工林を憂い、別子銅山跡の再生された山々や足尾銅山の取り組みに期待し、ソローの「森の生活」と鴨長明の「方丈記」の共通点に言及し、無名の詩人の「森の生活者」について語り、島崎藤村が書いた木のことばを取り上げ、最後にインドの詩人ダゴールの言葉を拾い出して、本書を終えている。

本書が与えてくれた静かな時間に感謝したい。

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2012.07.20 | 高田宏 | トラックバック:(0) | コメント:(2) |

竹内薫さんの「夜の物理学」です。
日の当たらない物理学の理論を紹介したサイエンスライター竹内薫さんの科学エッセイである。

著者によれば、ナイトサイエンスには3つの意味があり、

①「論理的な思考なんかじゃなくて、直感(思いつき?)や霊感めいたものに閃きを得て、そこから出発していくようなこと」
②名の通り「夜の科学」で、天体望遠鏡で覗く夜空の秘密を扱う
③空想、虚構、小説‥‥‥夢とロマンあふれる妖しい顔のこと

だそうである。

扱われているのは、例えば、
 「アインシュタインの宇宙定数」
 「エヴァレットの多世界と赤ちゃん宇宙」
 「エリスの宇宙動物園説」
 「ホーキングの虚数宇宙」
 「ビレンキンの量子宇宙論」
 「ホイルの定常宇宙説」
 「超ひも理論」

などなどで、現段階で、定説、準定説と言われるものから異端説と言われるもの、捨てられてほとんど相手にされていないものまでいろいろな理論とそれを唱えた物理学者を、独特の砕けたやさしい言葉で解説している。

定説も異端説も紹介されているが、物理学の世界では、異端説が将来、一発逆転で定説になることもままあることなのだそうだ。

あくまでもエッセイだし、出てくる理論はまあ、「これ、もしかして本人しかわかってないだろ」「人をおちょくっているのか」と思えるような、なんでもありの物理学の世界の話なので、「難しいので一応一所懸命説明してみますけど、わかんなくても気にしないでね」「こんな感じだとに思っておいてね」てな風に語っていて、わかりやすいし、読み物としてもたいへんに面白い。

最後の方は、物理学者の恋愛事情とか、とっても性格の悪いロシアの天才ランダウさんの話とか、波瀾万丈の人生を送ったボームさんとか、ノーベル賞を受賞してから超常現象とか心とか生物とかに物理学をあわてはようとぶっ飛んだ研究ばかり始めてしまったジョセフソンさんとか、いろいろな物理学者たちの人間像を紹介していて、これもまた興味深い。

著者は、物理学が近年「コト化」していると言う。
昔のように理論があって実験で確かめるという「モノ」の世界を通り過ぎて、ホーキングの宇宙の始まりが虚数時間だという「虚時間宇宙」や素粒子は目に見えないヒモの振動状態だとする「超ひも理論」のように「本当」なのか「作り話」なのか、見当もつかない純粋理論の世界へと片足を突っ込みつつあると言うのだ。

不確定でどこにあるのかわからない「量子」が登場して以来、「モノ」というよりは「コト」の世界に向かっているのだ。

物理学の理論が、正しいかどうか誰にもわからない。誰にもわからないところがミソなのだそうだ。でも、それでいいのか?

そして、少なからず天才的な業績を残した物理学者たちが、現代宇宙論から、超自然的な世界へ足を踏み入れていく。われわれが「神」と呼んできた世界へと、宇宙の起源とか、生命の神秘とか、何か偉大な存在とか、そんなものへと、それこそナイトサイエンスへと向かっていく。

そんな物理学を日々研究している人たちを想像するに、なんか幸せな人たちだなあと思うのは私だけだろうか。

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2012.07.16 | 竹内薫 | トラックバック:(0) | コメント:(1) |

荻原浩さんの「オイアウエ漂流記」です。

《文庫本裏表紙より》
南太平洋の上空で小型旅客機が遭難、流されたのは……無人島!? 生存者は出張中のサラリーマンと取引先の御曹司、成田離婚直前の新婚夫婦、ボケかけたお祖父ちゃんと孫の少年、そして身元不明な外国人。てんでバラバラな10人に共通しているのはただひとつ、「生きたい」という気持ちだけ。絶体絶命の中にこそ湧き上がる、人間のガッツとユーモアが漲った、サバイバル小説の大傑作!


長い。

無人島での数ヶ月(?)にわたる生活なのだから、長く感じるのは正解かもしれないが、正直、中盤は長くてやや退屈でなかなか読み進まない感じがしてしまった。

700頁近くに及ぶ大作だし、読み応えがあると言えばそうなのかもしれないが、途中、少し飽きちゃった感が否めない。

遭難のシーンのドタバタや流れ着いた後のいろんな発見が連続するシーンが終わり、登場人物のキャラクターが掴めてきて落ち着いてくると、無人島での生活は、ある意味でシンプルであり、生きるために身を守り、食物を得るために工夫して、ただただ日々を暮らしていくのだから、退屈な印象を持ったことは、リアリティのある描き方だからかもしれない。

サバイバル小説としては、火をおこし、水を求め、食物を探す様子は、実に細部まで丁寧に描かれていて、真実味もあり、よくまあ南太平洋の無人島のことをここまで書けるもんだと感心する。

また、毎日が死と向かい合った最初の頃の緊迫感から、だんだんに無人島での生活になれていく様は、感覚としてそれが伝わってくるくらいに実に良く描かれている。

最後まで機長のことが気になってしまった。それだけでもやっぱり自分は平和に生きていて、しかも精神的に軟弱だなあと感じ入ってしまう。

いろいろなキャラクターが織りなすドタバタサバイバル小説だったが、誰しも、求められると適応し、能力を発揮するものだと実感する。
しかし、実のところ、私は、遭難でメガネが吹っ飛んだ時点で、役に立たなくなるんだろうなと(それくらい極端に視力が低いのだが)それが気になって仕方がなく、読んでいてもこの無人島生活になんとなく参加しきれなかったのだった。

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2012.07.14 | 荻原浩 | トラックバック:(0) | コメント:(1) |

大河内直彦さんの「『地球のからくり』に挑む」です。
理系の読み物だが、工学や物理学のみならず、文化人類学や文学までをも紐解き、さまざまな知識が交錯していて知的刺激に富んでいる。

まず、「地球の定員」という興味を引かれるタイトルで第1章がはじまる。
私たち人類は、ひどいエネルギー中毒に罹っているとする。
私たちが一日に口にする食物はおよそ一万キロジュール(2400キロカロリー)だが、その30倍の30万キロジュールをゆうに超えるエネルギーを毎日消費しているのだ。

動物の生きるエネルギーの根源は、植物の光合成、すなわち太陽エネルギーに行き着く。植物が固定した太陽エネルギーは1年で300京キロジュール。そのうちの10%の30京キロジュール分の植物を草食動物が食べ、肉食動物はさらに10%の3京キロジュール分の草食動物を食べる。
太陽エネルギーの総量が決まっている限り、こうして地球上に暮らすことのできる生き物の「定員」は決まってくる。

膨大な種類の生き物が地球上にいる中で、人間という一種だけでそのうち2京キロジュールのエネルギー量を食べており、明らかに私たちは生態系のバランスを崩していると言える。

一万年ほど前、人類は、自然とのつながりだけに頼った太陽エネルギーの利用法から手を切り、人類だけが自然界のルールに縛られずに抜け駆けできる「からくり」を生み出した。それが「農耕」である。

農耕によって人類は地球環境に悪影響を与えるほどに大幅に個体数を増やしたのである。そしてそれを支えたのは「窒素肥料」であり、もし「ハーバー・ボッシュ法」の発明がなければ、窒素肥料を作ることができず、現在の世界人口は30億人ほど少なかったと考えられるのだといい、この発明が与えた影響の大きさがずいぶんと強調されている。

この他、石油、石炭、天然ガスといった化石燃料を中心に、理系・文系の知識を総動員して、化石燃料と文明との関係、その歴史と成り立ち、さまざまな背景や地球システムにおけるかかわりなどを解説しており、たいへんに興味深い。

石油の起源である太古の赤潮現象について。
世界中の海底に大量のヘドロが溜まった「海洋無酸素事変」は、一億年前、ヘドロが百万年もの間、海底に降り積もったもの(現在の黒色頁岩)で、このヘドロを作りだしたのは赤潮の原因「シアノバクテリア」である。この一部のヘドロが現在までの一億年の間に地熱で熟成され、石油への変質したのだという。

太古の昔にシアノバクテリアが数百年にわたって大繁殖し、一億年に渡って貯め続けた太陽エネルギーの恩恵にあずかって現代人は暮らしているのだ。そのバクテリアを形づくる炭素は、地球の内部に閉じこめられていた宇宙のかけらなのだそうだ。

地球には、いくつかのからくりがあるという。

例えば、植物の光合成を起点とする炭素サイクルは、二酸化炭素と有機物の間を行ったり来たりして、差し引きすると何も消費しないようになっている。それは、目に見えない微生物が、光合成によって生み出される有機物と酸素を分解し続け、二酸化炭素と水に戻していくからで、見事にバランスを保っている。

また、炭素サイクルは一年で一回転するのであるが、一回転につき0.4%が脱落して炭素は徐々に枯渇していくのだそうである。しかし、サイクルから抜け落ちていった炭素を補充するからくりがある。それは火山活動であり、火山から噴出するガスに二酸化炭素が含まれていて、大気中へと放出される量が、炭素サイクルから抜け落ちる二酸化炭素量とぴったりと一致するのだそうだ。実に巧くできている。

そこに、人類の叡智に基づくイタズラが入ってくる。

炭素サイクルには2つある。一年に一回転する「生物サイクル」と、数億年に一回転する「地球サイクル」が共存しているのだ。この二つのサイクルが地球のからくり(火山活動など)によって見事にバランスしている。

化石燃料は、すべて地球サイクル側に含まれる物質であり、人類はそれらを無理矢理に生物サイクルに引っ張り込んでいるのだという。おかげで生物サイクルを巡る炭素の総量が年々増加し、その結果として大気中の二酸化炭素が増え、酸素が減っているのだという。

人類は化石エネルギーを得るために、自然の営みの一部を速回ししているというイメージだ。地球の何億年にもわたる自然の営みを攪乱しているのである。

ちなみに、人類が化石燃料を燃やしてエネルギーを得ることで、大気中の酸素濃度が毎年0.0003%減少しているのだそうだ。このまま減少すると一万五千年後には人類は絶滅するという。

最後に大河内直彦さんは言っている。

「二十世紀以降、化石エネルギーは人類の活動における主力エンジンにまで成長した。それどころか、いつの間にか主客が逆転して、人類の行動までをもコントロールするようになってしまった。‥‥‥禁断の果実を口にした人類の欲望は、もはや後戻りができないところに来てしまった。」と。

そして「エネルギーに支えられた豊かな暮らしは、皮肉なことに、現代社会を成り立たせているからくりや、リスクを忘れがちにさせてしまうようだ。‥‥‥それどころか、人間の精神構造まで幼稚にしてしまう作用もあるのではないか。」と警鐘を鳴らしている。

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2012.07.09 | 大河内直彦 | トラックバック:(0) | コメント:(2) |

山本幸久さんの「シングルベル」です。
婚活モノと言っていいんだと思うが、切り口は独特である。


《文庫本裏表紙より》
恋の気配すらない息子・陽一に業を煮やし、親同士のお見合いセミナーに参加した父・恵。3人の女性たちとの“出会い”を演出するも…。次々と飲み友化していく彼らは果たして結婚までたどりつくのか?
4年後を描いた書き下ろし短編「ハンドベル」を文庫化にあたり収録。

山本幸久さんの作品には、だいたいいつも同じような感想が浮かんでくる。

とにかく圧倒的に読みやすい。
抵抗をほとんど感じず、心地よくただただ読み進めていける。
どんな悩みを抱えていても、憂鬱な気分の時でも、山本作品を開けば、その世界にすんなりと入っていける。

平和だ。平穏な気持ち良さだ。
途上人物がだいたいみんな愛すべき悪気のないキャラクターを備えており、安心してその世界に浸っていられる。

私にとっては、救いの本と言っていい。
無理のないストレス解消の待避所である。
いざというときのために、まだ読んでいない山本幸久作品をいつも手元に確保しておきたいものだ。

読んでるときの印象はいつも同じような感じなのだが、何冊読んでも、飽きることははない。それぞれにちゃんと楽しめる特徴を有しているのである。

今回も30代の独身の息子と娘たちに対して、親や叔母や姪や周りの関係する人たちが、ドタバタと好き勝手に動き回り、画策し、彼ら彼女らを引きずり回しつつき回し、それでもなんだかみんな双方に楽しんでいるようで、微笑ましい。

シングルベルとは、「一緒にいる相手もいなく、一人でクリスマスを迎えること」を意味するのだと思うのだけど、そういう悲壮感とか孤独感とかそんな感じはこの中にはあんまりなくて、それなりにみんな平和でささやかな人間関係を構築しているところがこのお話の良さなのだろうし、過剰なお節介も含めて人とのつながりのあったかさがしっかりと物語を包み込んでいる。

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2012.07.06 | 山本幸久 | トラックバック:(0) | コメント:(3) |

ユクスキュル/クリサートによる「生物から見た世界」です。
エストニア生まれのユクスキュルにより、1934年にベルリンで出版された動物学の古典的名著である。

先日読了した「世界がわかる理系の名著」で紹介されていたなかで、もっとも興味を持ったのが、この本だった。

一般に私たちを取り巻く「環境」と言えば、客観的に私たちのまわりにあるすべての物、木や花や草や水や土や気温や天候や、あらゆるものが存在する世界を考える。

しかし、ユクスキュルは、動物を取り巻く時間や空間は、動物によってすべて違うというのである。あらゆる動物はみな独自の「環世界」を作りながら、その中に浸りながら、主体的に生きているというのだ。

多様な環境というものの中から、動物たちは自分にとって意味なるものを選び出し、それらで作り上げた環世界が、動物自身にとっても重要なのだという。

ユクスキュルはこう表現している。
「あらゆる動物は、それぞれのまわりに、閉じたシャボン玉みたいなものを持っていると想像していいだろう。主体の目に映るものすべてがそのなかに閉じこめられている」
「シャボン玉は主観的な知覚信号から作られている」

本書ではそれを、ダニやゾウリムシやカタツムリやハエやミミズや鳥や魚やモグラなど、さまざまな事象を取り上げて解いている。それぞれにおいて、主体的な環世界が作られており、それ以外のものは無いものとして扱われるが、そのように設計されているのだ。

さらに、人間に関しても言及している。大人と子どもでは環世界が違っている。視覚的なことで言えば、経験によって大人の環世界は広がっていったり、距離を認識したりしていくのである。
また、天文学者の環世界、原子物理学者の環世界、感覚生理学者の環世界がいかに違うのかといったことにも言及しているが、最後に「多様な環世界すべての背後に、永遠に認識されないままに隠されている、自然という主体がある」と本書を締めている。

地球温暖化や生物多様性など、政治的にも学問的にも環境問題が重要なテーマとして取り上げられている現在において、人間である私たちが捉える環境というものを考える上で、ユクスキュルの唱える「環世界」という考え方は、今なお新鮮であるだけでなく、きわめて重要であり、環世界の視点無しには、環境問題の本質的な議論はできないとさえ感じる。

私たちが「良い環境」と考えるとき、それはすべての動物やあるいはすべての人にとっての環境ではなく、私たち(主体)にとっての「良い環世界」を意味していることを理解しなければならない。
「私たち」とは如何なる主体を指すのかが常に問題であるのだ。

私たちは、誰もが自分だけの思い込みの世界に生きているのである。

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2012.07.01 | サイエンス | トラックバック:(1) | コメント:(2) |

辻村深月さんの「ツナグ」です。

《新潮社HPより》
この喪失は永遠に取り戻せないのか――あなたが再会したい人は誰ですか?
もしOKしてくれたら、絶望的な孤独から私を救ってくれた「あの人」に、ただ一言、お礼が言いたいんです――。たった一人と一度だけ、死者と生者を再会させてくれる人がいるらしい……。大切な人を失った後悔を抱えながら、どう生きればいいのか。誰もが直面する苦悩に真っ正面から挑んだ、著者渾身の連作長篇ミステリ!


紹介文に、「誰もが直面する苦悩に真っ正面から挑んだ」と書かれているように、人間の心の深いところを描こうとした意欲的で奥深い作品だ。

ミステリと書かれていて、「死者と一度だけ会える」という神秘的で不思議な事象を扱ってはいるが、謎とか推理とかそういう部分はあまり(重要では)なくて、人間の深層のところを、人と人との関係の中で感じ合い、誤解し合い、すれ違い、理解し合う微妙な感情を描いている。

さすがに辻村さんの作品だと言えば、そのとおりだと思うのだが、私の読後の印象としては、そんなにグッとは気持ちの中には入ってこなかった。
強い印象は残ったし、お話も面白くはあったが、これまで読んだ辻村さんの作品のようなジンと余韻が残る素晴らしい読後感は少し薄かったように思う。

最初の二話は、テーマはわかるのだが、依頼者の苦悩のところが少し極端な思考のせいか、あくまでも私の考え方のせいか、あまりしっくり来なかった。なにか感情のまどろっこしさみたいなモノが邪魔をしてどうも共感できないでいた。

後半の三話は、展開にメリハリがあってズンズン読み進めていけたが、予想した通りに展開し、いろいろな部分であまりにもお話ができすぎている感じがして、感情移入があまりできなかった。
依頼人や使者の感情の動きとか思いの揺れとかそういうものが、全体に説明しすぎていて、もう少し読者にゆだねて欲しいと感じた。

なんか、低評価な印象を与えるレビューになってしまっているが、大好きな辻村深月さんの作品だからこその感想であって、十分に魅力的な作品だったし、映画化されるそうだが、映画にしたら面白いだろうと期待している。

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2012.06.30 | 辻村深月 | トラックバック:(1) | コメント:(0) |

池田清彦さんの「やがて消えゆく我が身なら」です。
尊敬する池田清彦さんが、「本の旅人」に連載していたエッセイをまとめたもの。

《文庫本裏表紙より》
「ぐずぐず生きる」「80歳を過ぎたら手術は受けない」「仕事が嫌いなら、心を込めずに働く」「がか検診は受けない」…。人はいつか必ず死ぬ。崩壊寸前の日本の社会システムのなかで、どうしたら有限の命を面白く生きられるだろうか。そもそも面白いとはどういうことか。飾らない人生観と独自のマイノリティー視点で、現代社会の矛盾を鋭く突く!生きにくい世の中を少しでも快活に過ごす、本音炸裂エッセイ。


『人は死ぬ』からはじまっている。
「人間は脳が巨大となり、自我などというものが機能しだして死の恐怖を感じるようになった」と言い、「我々の人生が面白いのはいつか死ぬことを我々自身が知っているからに他ならない」とする。
確かに有限の命であればこそ、今日がどれほどに楽しかったかは意味を持つのだろう。

このエッセイは、有限の命をどうしたら面白く生きられるのかを、池田先生の卓越した理論というのか、あれやこれやをすっかり超越した思考に、奥深い知見を交えて綴った心地よくて痛快な読み物だ。

ご自分で書かれているが、池田先生の文章や主張は、身も蓋もない。これは良い意味で言っている。正しい姿勢というかそういうものだ。

「身も蓋もない」とは、「表現が露骨すぎてふくみも情緒もない」ということだそうで、ある主題について理屈を詰めていけば、ふくみや情緒がなくなるのは当然だという。
変な情緒を排除して、スパッと理屈を吐き出せば、身も蓋もない切れのいい文章に、物言いになるのであろう。だから池田先生の言葉は実に歯切れが良く、小気味いいのだ。

「自分たちの情緒のみが正しいという思い込みが、この世界のすべての不幸の源泉である」との考え方が、芯のところに通っている。

しかしまあ、これだけ過激にものを言いながら、少しも嫌味に感じないのは、そこにある洞察の鋭さとユーモア、そして端々に人柄の良さが滲み出いているからだろう。

たくさんたくさん、ニンマリしちゃうほどに切れ味のいい言葉が、池田理論が並んでいる。
取り上げ出すときりがないのでここではやめておく。

池田先生の思想の基本的なところは、「未来の人も含めて、他人の自由を侵害しない限り基本的に何をしてもよい」との考え方だ。

こういう考え方をベースにおいているからだろうか、池田先生の文章を読んでいると、なんだか肩の力が抜けていく。
あなたは、あなたのまま、無理をしなくていいんだよと言われているような気がしてくるのだ。

それだけでなく、池田先生の文章を読んでいるだけで、物事を考えるときに、素直な自分の目で見て思考する癖みたいなものが少しずつだけど身に付いていくような気がしてくるから不思議だ。読後はなんだか少し、自分のマイノリティの視点で世の中を見ることができるかもしれないという妄想に浸っているのである。
これも心地よい。

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2012.06.23 | 池田清彦 | トラックバック:(1) | コメント:(0) |

サイモン・シンさん(青木薫訳)の「フェルマーの最終定理」です。
数学ノンフィクションをベストセラーにしたこと自体が貴重な作品だ。


《文庫裏表紙より》
17世紀、ひとりの数学者が謎に満ちた言葉を残した。「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」以後、あまりにも有名になったこの数学界最大の超難問「フェルマーの最終定理」への挑戦が始まったが―。天才数学者ワイルズの完全証明に至る波乱のドラマを軸に、3世紀に及ぶ数学者たちの苦闘を描く、感動の数学ノンフィクション。


まずもって、ピエール・ド・フェルマーってのはくせ者だ
「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」などと、思わせぶりで挑発的な謎かけを仕掛け、後の数学者たち(当時の数学者たちもだが)を手玉に取ってしまった。

それもフェルマーは、裁判所に勤める役人であり、アマチュア数学者であった。趣味で数学をやっていたのだが、いろんなエピソードからもその天才ぶりはよくわかる。
そして、「こういう命題(定理)を証明した」と著名な学者たちの手紙を送りつけたりするのだが、証明自体は書き残さない。書物の余白などにヒントめいたものをメモったりするだけだ。

で、フェルマーが提示した様々な定理を証明すべく、名だたる数学者たちが取り組んでいくのだ。そして、最後の最後に残った誰も証明できなかった定理が「フェルマーの最終定理」と呼ばれることになる。

フェルマーの最終定理とは、

 nが2より大きい自然数であれば
  Xのn乗+Yのn乗=Zのn乗
 を満たす、自然数X、Y、Zは存在しない


といういたってシンプルな定理であり、命題である。

これが、三世紀以上にわたって数学者たちの挑戦を退けてきた超難問だなんて、それだけでも数学というものの奥の深さというのか、不思議さというのか、世俗を超越した独自の世界観というのか、数学って(その中でも特に数論ってのは)なかなかに変だということが存分に感じられる。

本作は、1995年アンドリュー・ワイルズによってフェルマーの最終定理が証明されるまでの三百五十年の数学者たちの挑戦を、数学の歴史や社会背景、関係する数学者たちの人物像にまで光を当てて紐解いた数学ドラマである。

定理とそれを解くための理論など、数学に関する説明がたくさん出てきて、なかなかに手強い。読むのに疲れるし、時間もかかるのだが、でも読まされてしまう魅力が充満している。

特に、冒頭から「謎をかける人」フェルマーに関するところやピタゴラス教団などの話は大変に面白い。この時代ならではの社会背景が数学というものに与えた影響、数学が社会に与える影響などが、数学の神秘と絡んで興味深い。

中盤は、オイラーをはじめとする著名な数学者たちの挑戦が少しずつ積み上がっていく様が描かれていて、これだけ多くの学者が取り組んできたのだということは認識できるが、読み物としては少し退屈な部分かもしれない。

終盤にはいると、何人かの日本人が登場してきて、また面白くなってくる。
フェルマーの最終定理の証明において、「谷山=志村予想」は強大な威力を発揮するのだ。フェルマーの最終定理の真偽は「谷山=志村予想」が証明できるかどうかにかかっているという。
そのうちの谷山豊が自殺をしたという衝撃的な事実も重なり、この二人の日本人の登場が、本書のなかの際だった存在となる。

世界最大の難問フェルマーの最終定理を証明して見せたのはアンドリュー・ワイルズであり、彼に報道も名誉も集中したわけだが、それを支えていたのは何人かの日本人の功績であったのは感慨深い。

特に、フェルマーの最終定理が証明されたからといって、何かが変わるわけではない。
それよりも実は「谷山=志村予想」が証明されたことの方が、数学にとっても、実社会への貢献ということでも、意味が大きいのだということがしっかりと書かれていて、そのことが驚きであった。
著者のサイモン・シンは、よくこれだけのもの書いたものだと、ただただ感心させられた。

フェルマーの最終定理のようなシンプルな命題に魅了される数学者たちに、何か不思議な感覚を覚える。そして、そういう純粋な何かに没頭できる数学者なる立場が羨ましいような気がしてしまう。

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2012.06.17 | サイエンス | トラックバック:(1) | コメント:(6) |

バカリズムさんの「都道府県の持ちかた」です。
本屋で文庫版が出てたのを見つけて、あらためて読みたくなった。

《amazon内容紹介より》
2010年5月のオリコン主催「もっとも面白いと思うピン芸人」で1位に輝くなど、確固たる地位を築いている芸人バカリズム。
その究極のネタ「地理バカ先生」が、ついに書籍化!
都道府県を持つとしたら、どう持つ?……
そんな奇想天外なネタを全47都道府県、網羅!
各都道府県のマニアックな情報も満載し、
まさに「新しい地図帳」としても楽しめる一冊です。


バカリズム好きなんだよね。
お笑い芸人の中ではピカイチにお気に入り。

なんかどことなく気恥ずかしそうなところがいいね。
たぶん照れ屋なんだろうなぁと思ったり。
ひな壇にいても微妙に乗りきれてないところが愛おしい。

でも発想は抜群。
ipponグランプリなんて観てるとその切れ具合に惚れ惚れする。
これは、そのバカリズムの叡智が垣間見られる本だ。
都道府県をどう持つか考えようという発想自体が素晴らしいというか常軌を逸している。

47都道府県の地理とか特長と持ち方、扱い方が書いてある。
クイズなんかもあって楽しめる。
いやぁバカみたいだけど、とっても知的。
楽しい!とりあえず見てクスクスっと、ニヤニヤっと笑おう。

わが三重県はと見ると、結構かっこいい持ち方。いいね。ネタバレするので言えないけど。
京都府はなんかちょっとイヤですね。そんなことされるの?ネタバレするので言えないけど。
長崎県は確かに気を遣うよね。ネタバレするので言えないけど。
高知県はなんとも不憫な扱いだな。ネタバレするので言えないけどね。

結局ほとんど書評でも内容紹介でもないのだが、
存分に楽しんだことが伝わればそれで嬉しいのだ。

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2012.06.16 | バカリズム | トラックバック:(0) | コメント:(6) |

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